四季 冬 森 博嗣 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)妃真加島《ひまかじま》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)天才科学者|真賀田四季《まがたしき》 ------------------------------------------------------- 〈帯〉  全ての時代を、  全ての歴史を、  彼女は通り抜けた、  あっという間に  4部作、ついに完結!! [#改ページ] 〈カバー〉  森ミステリィの極点  私は私を殺して、  私は私になった。  私は私を生かして、  私は私を棄《す》てた。  天才科学者|真賀田四季《まがたしき》の孤独。両親殺害、妃真加島《ひまかじま》の事件、失踪、そしてその後の軌跡。彼女から見れば、止まっているに等しい人間の時間。誰にも理解されることなく、誰の理解を求めることもなく生きてきた、超絶した孤高の存在。彼女の心の奥底に潜んでいたものは何か……? 「四季」4部作ついに完結!!  まだ見たことのない冬 森博嗣(もり・ひろし) 1957年愛知県生まれ。 現在、国立某大学の工学部助教授。 [#改ページ]  四季 冬 [#地から1字上げ]森 博嗣 [#地から1字上げ]講談社ノベルス [#地から1字上げ]KODANSHA NOVELS [#改ページ]  目次  プロローグ  第1章 白い部屋  第2章 黒い部屋  第3章 赤い部屋  第4章 青い部屋  エピローグ [#改ページ] [#中央揃え]THE FOUR SEASONS [#中央揃え]BLACK WINTER [#中央揃え]by [#中央揃え]MORI Hiroshi [#中央揃え]2004 [#改ページ]  まことある愛に幸いしたまい、すぐれたる若者をこれまで導きたもうて、婚約の前にその胸に乙女を抱《いだ》かしめたまいしミューズの女神たちよ。この上ともに、この愛すべき二人が縁《えにし》を結び了《おお》せて、彼らの上に覆いかからん群雲《むらくも》を払い除かせたまえ。分《わ》きて願わくは、いま家に起これる事のあらましを物語らせたまえ。 [#地付き](HERMANN UND DOROTHEA/Goethe) [#改ページ] プロローグ [#ここから5字下げ] まったく、現今の世の中は、宗教の歴史や一般の歴史の伝えるような、稀有《けう》の時代に似ておりますな。こういう時世に昨日今日《きのうきょう》を過ごす者は、一時《いちどき》にあらゆる事件に出逢うから、すでに幾年を暮らしたも同然です。 [#ここで字下げ終わり]  闇の中を泳ぐように車は走った。ワイパが忙《せわ》しく往復しても、泥混じりの水がフロントガラスにぶつかる勢いには及ばない。瞬間的に現れる僅《わず》かな残像のようなクリア領域から、先を覗き見るように神経を集中する必要があった。  周囲の暗闇が部分的に前方にだけ切り出されている。水族館を連想させる視界。あるいは自分が熱帯魚の水槽の中に沈んでいる、とも錯覚できた。小さな潜水艇に乗って海底探査をしていると想えば、この過酷な状況にも腹を立てないですむだろう。どんな安っぽい幻想でも、醒《さ》めさえしなければ、それなりに納得できるものだ。ただし、潜水艇にしては左右に激しく揺れ動く状態が不自然だった。そのたびにサイドウィンドウに泥水が跳ね上って、少なくとも湿潤《しつじゅん》の地を這《は》っている現実、そしてこの惑星の知的生命体が進化の過程で選択した環境を、宿命という名の証拠品として思い出させてくれる。  急に道の幅が広がった。しかし、もう先はない。そこが終着だった。視界の判断よりもさきに、ナビゲータがそれを示していた。人工の光が前方に一つ、左右にそれぞれ一つずつ、穏やかに雨に煙った大気に拡散して灯《とも》っている。この一時間ほど、見たことのなかった懐かしい明るさだった。こんな野蛮で無秩序な雨の中では、唯一正しい存在に感じられる。地面は、周辺だけが何故か平らで、その外周をぐるりと森林が取り囲んでいた。駐車場だとしたら、充分な広さといえるが、おそらくはヘリコプタの発着のために作られたスペースにちがいない。  彼はエンジンを止めた。ヘッドライトが自動的に光量を落とす。絶え間なく降り続く雨の音が急に騒がしくなった。胸のポケットを片手で探り、煙草《たばこ》を取り出す。クラシカルなライタで火をつける。外に出たらとても吸えないので、今のうちに、と思ったからだ。エアコンは止まっていたが、車内の空気はまだ最低限の心地良さを残していた。  前方に光り輝くものが現れる。  シートから身を乗り出し、彼はそれを見た。  近づいてくる。  丸い形のもの。球体である。  大きさは、直径二メートル以上はあるだろう。大部分が透明で、ガラスかプラスティックで作られたもののようだ。それが、森林の中から浮かび上がるようにして現れ、彼の車に向かって低速で近づいてきた。推進装置を持っているとは思えない。後方で支持されているか、あるいは上部から吊られているのだろう。  突然、静かになった。  フロントガラスに当たる雨が止まった。  彼は辺りを見回し、状況を確認する。  さきほどよりも周囲は明るくなっていた。  車のドアを半分ほど開けると、湿った空気は予想外に冷たくなかった。  前方から近づいてきた透明の球体は、既に五メートルほどの距離まで接近していた。今は動いていない。音もなく、球体の中央で二つに分かれ、左右にスライドしながら外殻が後方へ回転した。  それが開くまえから見えていたが、中には女性が一人立っている。ベージュの柔らかそうなドレス。足許《あしもと》だけを僅かに露出させ、白いサンダルを履いていた。球体の下の地面には正確無比なグレィの道が出現している。今は、その上に浮かんだ黒い円盤に、彼女は立っていた。  彼は、まだ長かった煙草を急いで車内の灰皿で揉《も》み消し、車から降り立った。足許の地面も、やはり泥濘《ぬかるみ》ではない。車のタイヤは泥で汚れているのに、彼の靴は汚れることなく、濡れもしなかった。  真上の空を見上げる。  低い位置にあった眩《まぶ》しい照明のため、高いところは暗く、よく見えなかった。何もないように思えた。 「雨がやんだのは、何かの魔法ですか?」彼は尋ねた。 「そう、魔法です」彼女は答える。  彼は、もう一度周囲を見回してから、彼女の方へ数歩近づいた。球状の透明カプセルの構造にも興味があった。 「ようこそ、おいで下さいました、犀川《さいかわ》様」彼女が滑《なめ》らかに話す。「私は、四季《しき》様にお仕えしておりますユスと申します」 「こんにちは、ユス」 「どうぞ、こちらへ」彼女は、カプセルの中へと手招きする。  犀川は黒い円盤の上に乗った。  後方から透明の外殻が現れ、再び球体を形成した。材質はクリアアクリルのようだ。静かに球体は移動を始める。地面にあるグレィの帯も端《はし》から消えていった。その帯とカプセルが、同時に移動している。  球体の中は狭く、彼女と躰《からだ》が触れるほどの距離に立たなければならなかった。一人乗りとしてデザインされているようだ。訪問者が複数の場合はどうするのだろう。そもそも、そんなケースはない、と想定されているのかもしれない。  ベージュのドレスのユスは、まだ若そうだ。十代といってもおかしくない。黒い髪を後ろで結び、額には細かい飾りものが輝いている。彼女は優しい表情で、黙って彼を見つめていた。 「真賀田《まがた》博士に、会えますか?」沈黙を嫌って、彼は尋ねる。 「そのために、いらっしゃったのではありませんか?」 「もちろんそうです。だけど……、どうも、まだ信じられないんですよ」  鬱蒼《うっそう》と茂る森の中をカプセルはゆっくりと移動する。周囲の枝葉は躍動し、まるで大きな生物の体内のようだった。前方には帯状に細いグレィの道が延びる。振り返ると、後方の道はカプセルとともに短くなり消えていく。初めのうちは、濡れている枝がカプセルに触れて、クリアアクリルの表面に水滴が動いたが、しばらく進むうちに触れるものもなくなり、障害物のない広い場所に出た。  そこは明るい。  沢山の照明に囲まれている場所が中央にあった。  テラスのようだ。家具などで幾つかのスペースに仕切られていた。壁はない。屋根もない。屋外に、こんなものを置いて良いのだろうか。さきほどの雨で、ここは濡れなかったのだろうか、と犀川は不思議に思った。  白いステップの手前でカプセルはゆっくりと停止し、小さな作動音とともに外殻が左右に開いた。ユスは片手を前方へ差し出し、さきへ行くように、と彼を促《うなが》した。犀川は、カプセルから出て、ステップを上がり、その奇妙な部屋の中へ足を踏み入れる。  部屋、というのだろうか?  ここは、屋外ではないのか。  床は白と黒の市松模様で、チェス盤のようだった。上を見ると、斜め方向の高いところに照明が霞《かす》んで見える。まるで浮かんでいるようだ。器具がどのように支持されているのかはわからない。どこにも、天井らしいものは見えなかった。ぐるりと、闇に沈むように森林が取り囲んでいるだけだ。  風はなく、鳥や虫の声も聞こえない。  静かだ。  動くものはない。  ここは、大きな温室の中かもしれない。さきほど、魔法だと彼女が言ったのは、可動式のドームだという可能性が高い、と彼は考える。  絨毯《じゅうたん》が敷かれたコーナに大きなソファが二つ、ほぼ直角を成して置かれていた。低いテーブルは陶器製のように艶やかで、皿のような花瓶にオレンジと白の花が沢山生けられている。それが作りものでないならば、奇跡的な造形だと思えた。 「しばらく、こちらでお待ち下さい」ユスが頭を下げる。「お飲みものは、何がよろしいでしょうか?」 「では、コーヒーを」 「ホットですね?」 「ええ」  ユスは頷《うなず》き、立ち去ろうとする。 「あ、あの……」犀川は彼女を呼び止めた。 「何でしょうか?」 「大変失礼なことをおききしますが、ここは、禁煙ですか? あの、屋外なのか、室内なのか、判然としないものですから」 「いえ、けっこうです。お吸いになっていただいてかまいません。灰皿は、テーブルの下にございます」 「どうもありがとう」  ユスは歩いていく。  ずっと遠くまで彼女の後ろ姿が見えた。いくつかの低い家具に遮《さえぎ》られ、その向こう側で、光が届かない闇の中へ消えていった。その境界まで追いかけていきたい衝動に駆られる。このスペースがどのようにして形成されているのか、別のフロアが地下にあるのか、あるいは空調設備はどうなっているのか、非常に興味がある。  テーブルの下の棚に、クリスタルの灰皿らしきものがあった。伝統的な形状だ。犀川はそれを取り出し、テーブルの上にのせた。それから、煙草をポケットから抜き取って火をつける。車の中では中途半端なところで消してしまったので、指にその名残《なごり》があった。  煙を二度ほど吐き出すと、視界を広げるために、彼は立ち上がった。  ソファに座っている場合ではない。この周囲の様子をできるだけ沢山観察したかった。フロアはフラットで、最初の入口のステップ以外には段差は見当たらない。まるで、車輪で移動する機械のためにデザインされたような場所だ。逆に、人間には落ち着かない。仕切がなく、周囲の見通しが良すぎる。  煙草を手に持っていたので、歩き回るわけにいかない。ソファから少しだけ離れ、方々へ視線を向けた。どこもとても綺麗だ。埃《ほこり》もなく、掃除は行き届いている。無駄なもの、雑然としたものは、存在しない。つまり、生活感はどこにも見つからなかった。キッチンらしきものもなく、また書斎あるいは仕事場らしいスペースもここにはない。そのかわり、方々に飾り棚やソファ、あるいはテーブルと椅子のセットが配置されている。この空間で可能なイベントは、立食パーティくらいだろうか。三十人くらいならば優に招き入れることができるだろう。  時差ぼけもあり、さらに長時間の車の運転も重なって、頭がぼうっとしていた。痺《しび》れているのかもしれない。酸素と一緒に煙草の煙を吸い、溜息とともに体内の灰汁《あく》を吐き出す。目が少しだけ痛かった。ようやく、この明るさに慣れたためだろう、見上げると、かなり高いところに天井らしき骨組みが見えた。やはり、大きな構造物の中にいるのだとわかる。雨が止んだのも、屋根を閉めたためだろう。  いったいここは、何のための施設か、  それを考えようとしたとき、動くものが目にとまった。  彼はそちらを向く。  急いでソファへ戻り、そしてまた、中途半端なところで煙草を消すことにした。  深呼吸。  真っ直ぐに立ち、彼女が近づいてくるのを待った。  ドレスは黒い。  長い髪と連続するように。  瞳は青く。  いかなるものにも連動しない、孤立した輝きだった。  彼の前まで音もなく近づき、  そっと片手を持ち上げ、  その白い手を差し出した。  犀川は、彼女の手にピンセットみたいに触れる。  軽い、そして、冷たい。  彼女の瞳を見つめたまま、否応《いやおう》なく、軽く頷いた。  頷かずにはいられなかった。  四季は一度だけ瞬き、青い瞳の輝きを一瞬だけ遮った。  赤い唇が動く。 「どうぞ、お掛けになって」彼女の滑らかな発声が湿った空気を緊張させ、周囲の静けさを際立たせた。「遠いところへようこそ」 「どうも、その……、お会いできて、光栄です」犀川は社交辞令を口にしたが、本当のところは言葉以上の気持ちだった。  言われたとおり、彼はソファに腰掛ける。隣のソファに、四季も座った。 「もの凄い建物ですね」彼は軽く見上げて言う。  四季は首を僅かに傾《かし》げるようにして、無言で小さく頷いた。じっと犀川の方を見据えている。 「ここで、どのような研究をなさっているのですか?」彼は質問した。 「いろいろ」四季は即答する。  数秒間の沈黙。 「他には?」彼女はきいた。 「いえ、もう……」彼は苦笑する。 「もう、きくことはない?」  彼は溜息をついた。  彼女は両手を膝に置き、彼を直線的に見つめたまま動かない。話をする必要などない、とでも言いたげに、口は形良く結ばれている。  犀川は静かに呼吸し、一度視線を床に落とした。  約三秒。  再び彼女を見る。 「人間がお好きですか?」彼は尋ねた。  四季は口もとを緩《ゆる》ませ、そして微笑んだ。 「ええ」 [#改ページ] 第1章 白い部屋 [#ここから5字下げ] 形を備えたこの世界が、混沌の闇に逆戻《さかもど》りして、新しく作り直されるかと思うほど、何もかも揺れ動いている。お前の心が変らずにいて、二人がいつかこの世の廃墟の上で巡《めぐ》り合うことがあったなら、その時こそお互いは、すでに造り直されて、運命に左右されぬ、自由な、生れ変った人間と成っていよう、こういう時世を通り過ぎた者は、もう何にも縛られることがあるまいから。 [#ここで字下げ終わり]      1  斜面に点在する白い羊たちを目で追いながら、草原の亀裂のような小径《こみち》を彼女は歩いている。空気は歴史を忘れて澄み切り、躰は転がるように軽く動いた。もしも自分が機械だったら、今は給油の必要もない。設計どおりの性能を発揮しているといえる。体内から音楽がわき上がってくるのでは、と予感するほど快調だった。  しかし一方では、彼女の大部分は暗闇の中に沈み、静座し、見るものもなく、聞こえるものもない。純粋均質な無の空間に浸《ひた》された自分と、それ以外のすべての存在の相互関連について、既に構築された数々の構成則を修正、微調整する作業に没頭していた。すなわち、意志の存在とはネットワークの成長にのみ顕在化する、という単純な予想は、未だに覆《くつがえ》されていない。  羊、羊、羊。  草原というカバーのファスナのような小径。  ごつごつと地面から突き出した石に靴底がぶつかる。  この空間、  この時間を、  自分は、どう繋《つな》ぎ止めているだろうか。  それが、この周囲に生きている羊に影響を及ぼすものにはなりえない。これほど近い位置に存在しているのに、無関係。つまり、羊は存在しないも同然なのだ。結局は、時空の局所化が招く弊害だろうか。  だが、  いずれにしても、  ここからも、今からも、  既に自己は完全に乖離《かいり》していると見なすべきだ。  すなわち、死んでいるも同然。  これほど躰が軽く、体液はリズムを欲しているのに、もはや、生を成しているとは認められない。少なくとも、ここにおいて、今においては。  緩やかな丘を登りきったところに、大きな黒い岩が露出していた。巨大な雄牛が眠っているようなシルエットだった。彼女はその岩の冷たさを知っていたが、しかし、片手を伸ばしてそれを確かめ、深呼吸をしてから躰を寄せ、そこに自分の背中をつけた。体重の何割かをあずけ、空を見上げる。  歩くのをやめても、風が少し残っていた。空気は、常に圧力の低い方へと流れる。空気に限らず、多くのものは平衡を求めて、強い方から弱い方へ、力を消すために移動する。これとは対照的に、人間は、強いところへ集まり内圧を増す。これは、人の生が元来、アンチ・エントロピィ的なプロパティを有している所以《ゆえん》だろう。あるいは逆に、強いと思われているところこそ、実は応力が低いのか……。  流れずにはいられない。  何ものも留《とど》まれないのだ。 「機嫌が良いね」其志雄《きしお》が声をかけた。 「そう」四季は頷く。「否定はしない。平均的には、そのとおり」 「君は平均的じゃないよ」 「波動の回折に関する方程式は、今一つね。モード解析の二つの新パラメータについても新たな進展はなし。どうなっているの? 螺旋《らせん》解析法の別展開は幻想だったのかしら? 単に優れた後継者がいないってことかも。でも、たったそれだけのことで、テクノロジィの進歩が阻害されて、ときには止まってしまう。あっという間に最先端技術が遺跡になるわ。集積回路なんて、そのうち模様の名前で呼ばれる。人間は、遺跡を造る蟻《あり》ね」 「清々《すがすが》しい朝だから、君の不満は、聞き流そう」其志雄はくすっと吹き出した。 「聞き流して」 「マイナな話題ばかりじゃないか、もっと、その……」 「大局的な」 「そう、大局的なテーマはないものかな?」 「ごめんなさい」四季も微笑んだ。「そうね、悪いものばかりでもないわ。さらにマイナではあるけれど、超圧縮性の数値実験に成功したグループがいるようだし、あと、動電子皮膜の技術も実用化の段階が近い。もちろん、それぞれに見所はあります。あまり興味はないけれど、まったく無視して価値を認めないというほど、悪くはない」 「捨てたもんじゃないって言うんだよ」 「人の数だけはもっと減らした方が良いわね」四季は空を見上げて別の話題に切り換えた。「わかっているのに、歩調が揃わないみたい。軍縮と同じ。つまりは、民族の頭数も武器と同じレベルってことだったのね。どこまで原始的なのかしら」 「戦争もテロもなくならない。何故だと思う?」 「貧しいから」 「相対的な貧しさは消えないよ。貧富の差は必ず存在する」 「いいえ、問題は絶対的な貧しさ」 「豊かになれば、争いはなくなるだろうか?」 「争いとは何か、という定義の問題もあるわ。押し入った強盗を警官が捕まえるのを争いと言う?」 「言わない」 「でも、強盗が武器を持っていれば、逮捕には応戦するための武器が必要になる。暴力にはちがいないわ。戦争だって同じことでしょう?」 「だいぶ違うと思うよ」 「違うと思っていることが、平和かも」 「結局、どういうこと?」 「どういうことでもない。抽象できるのは、どんなものも、あるべき位置に接近するだけで、そのものにはけっしてならない。かぎりなく漸近《ぜんきん》するだけのこと」 「不思議だよね、これだけのテクノロジィを持ちながら……」 「持ちながら?」 「未だに実現できないものがあるなんてさ」 「能力的な問題ではない。人間は、自分たちが愚か者だって信じているのよ。原因はそれ」 「そうかなぁ……。けっこう驕《おご》っているところもあるんじゃない?」 「いいえ、心の底で人は皆、人間なんてちっぽけな存在だ、馬鹿で我《わ》が儘《まま》でどうしようもない生きものなんだって考えているの。おそらく、それだけが人類の絶対的な共通認識だと思っている」 「謙虚なんだ」 「自虐的」 「控《ひか》えめな方が賢く見えるからかな?」 「哀れな方が美しいとさえ思っている」 「少なくとも誰でも、美しいことは好きなんだ」 「もっと高いところで共通点を見出すことを最初から放棄している。結局は、その卑下《ひげ》した諦めの認識からくる自己抑制に起因しているのでしょうね。特に、知識のある人間ほど、自分を愚か者だと思いたがる傾向にあるわ。何だろう……、おそらくは、多くの宗教にシンボライズされている戒《いまし》め、それとも、頭脳活動が老化によって低下することを見越した予防線の一種という可能性もあるわね」 「どうせ、いつかは死んじゃうんだっていう気持ちが、やっぱり支配的なんじゃないかな。どこまでも上りつめるわけにはいかないことは自明なんだ」 「なるべく早く悟ってしまいたいのだと思う」四季は肩を竦《すく》めて言った。 「そりゃあ、これだけは避けられないからね。運命っていうやつさ」 「悲しい不自由さ」 「うん、僕も、それは確かに悲しいと思うよ。淋《さび》しいとも感じるし」其志雄は溜息をついて、頷く。「だからこそ、それを、つまりは、美しいという感覚でエネルギィ変換している構図だと分析できるな」 「美しい、か……」四季は言葉を繰り返した。「おそらく、その無理なエネルギィ変換のプロセスで捏造《ねつぞう》された価値観ね。したがって、それを認識するのは、人間だけ」 「人工的なものだってことだね?」 「そう。一番、不可解な形容だな。実体がないもの」 「しかし、君だって、美の存在を理解することはできるだろう?」 「理解を超越している、という意味でならね。あるいは、そう、刺激を求める心理に類似しているとも思う。結局は、生を確認する行動とも関連しているのでしょうね。けっこう複雑なネットワークだわ。ちょっと幾つかパラメトリック・スタディをしてみようかしら」 「うん、しかし分析すれば、案外単純な欲求に結びついているかもしれないね。というか、意識的に結びつけてしまう気がするなあ」 「分析する行為自体が、単純化に通じると言いたいのね?」 「結論を求めることで、必ずしも安心が得られるとも思えないってこと」 「安心、危険というよりは、所有と喪失ね」 「そう……、確かに、失われるものが多そうだな」 「結局のところ、人間って、失いたいのじゃないかしら」 「失いたい?」 「自分の身を切られることが、それほど痛いとは感じないものが多いでしょう? どうしてなのか、植物も下等な動物もそう。あまり痛みを感じないようにできている。人間だけが、自分たちがそれを感じると意識している、そしてそれ故《ゆえ》に、危険を避ける努力をしていると考えている。しかし、本当にそうなのかしら?」 「痛みは、思い込みだって言うの?」 「そう。客観的に考えてみて。どうも違うように思えてくるはず。本当のところは、痛くもない、辛くもない。何故なら、死へ近づくことは、ある意味では、生命活動のゴールなの。目的を達成する行為でしょう? 後退ではない、前進なのですからね」 「喪失が美しいと感じる感情は、確かに存在する。だけど、今の論理は飛躍だと思える」 「何かを獲得したときの精神的充実は、かつてそれが獲得できなかった状態との対比として現れる。それはすなわち、それが足りなかったときの自己を正当化する動機から来るものでしょう?」 「ちょっと待って、なんだか、飛んでない?」 「ごめんなさい、ちょっと面倒なので途中を省略したの。話題を変えましょう。観察技術の未熟さから生じる思考限界は、おそらく、ごく初期のコンピュータ技術の進歩で完全に排除された。この点で、ニュートン以後のこの五百年の技術進歩は一つの到達点を迎えたと考えられている。それは良いのだけれど、さて、世界中が心配しているのは、その次にやってくる技術、次世代の科学、さらなる技術発展、そしてそれに伴うより深遠な学問領域の展開、真の文明の開化……。どう? あるかしら、そんなものが?」 「僕に感想を求めているの?」 「虹は綺麗だけれどね」 「虹?」 「どう思う?」 「その問いにきちんと答えられるのは、君だけだよ、四季」 「それに答える義務は、私にもないわ」彼女は首を傾げ二秒ほど目を瞑《つぶ》った。「無理数のように隙間を埋めていくことはできても、広がりの緻密《ちみつ》さを変えることは無理。そうでしょう? 精神世界の縮小で、擬似的に物理世界の膨張をイメージするのがせいぜいのところだわ。実につまらない」 「でも、虹は綺麗だよ」 「近づいたら消えてしまうのよ」 「到達したとしたら、どうなる?」 「難しい質問ね」四季は首をふった。「わからない」 「珍しいことを言う」 「珍しいことが、まだあって、良かった」彼女はゆっくりとその言葉を発音して、微笑んだ。「お客様に会うのが、多少は楽しみになったかも」 「どうして?」 「自分に新しいところがないのに、他人に会ってもしかたがないでしょう? そういうのは苦痛」 「それ、僕には意味がわからないよ」 「そうね、男性にはその概念がないのかもしれない。塗り分け問題のようなものなんだけれど」 「それ、よけいわからないよ」      2 「貴重なお時間をいただきまして、誠にありがとうございます」ディスプレィに映っているのは立派な身なりの男だった。彼の隣に若い女性が座っている。アシスタントではない、そちらの彼女が事実上の責任者なのだ。 「挨拶は不要です。用件を」四季は椅子に座りながら応えた。 「はい、恐縮です。それでは、この件につきましては、担当の堀口《ほりぐち》の方からお話しさせていただきます」男はそう言って頭を下げる。 「堀口と申します。よろしくお願いいたします」  既に十五秒もロスしている、と四季は思った。 「ご興味はないかと存じますが、最近半年ほどの間に、関東近辺で類似した手口による殺人が何件か発生しています」堀口は別のウィンドウに地図を出した。「同一犯と断定されているものが六件、関連が強いと推定されるものが二件、調査中のものが一件という内容です」 「専門外です」四季は言った。「どんな議論がしたいのか、さきに話して」 「結論を申し上げますと、真賀田博士のお知恵をお借りしたい、ということですが、その、何と申しますか、どんなことでもけっこうですので、どうか……」 「別の話題にしてもらえませんか」四季は男の方を見て優しい口調で言った。「時間の無駄です」 「あの、すみません。待っていただけないでしょうか」堀口が腰を浮かせる。「私が話すよりも、事件のデータをお送りいたしますので、どうか、ご一読下さい」  準備をしていたようだ。瞬時に画面に写真と文章が表示された。四季はそれを目で追った。文字は彼女の視線に反応してスクロールする。途中で、一瞬だけ彼女は目をとめ、そして、納得した。 「貴女の言いたいことが、わかりました」四季は頷いた。「もう少し詳細なデータを送って下さい。協力しましょう」 「ありがとうございます」堀口は嬉しさを素直に表情に出した。「今、入手できるものは、すぐにお送りいたします。また、情報が入りしだい、追加でお届けいたします。何か、お心当たりがおありでしょうか?」 「いいえ」四季は首をふった。「でも、そうね、とにかく、興味はあります。議論はのちほど」彼女は男を見た。「他には?」 「私のところは、今回はこれだけです」彼は答える。「ありがとうございました。次へお回しいたします」  画面が切り替わる。メガネをかけた老人が現れた。こちらを見て、ゆっくりと片手を上げた。 「お久しぶりです、先生。お元気そうですね」四季の方から声をかける。 「元気に見えるかね? もうどこもかしこも、ぼろぼろだ。生きているのが不思議なくらいだって言われているよ。いくつだと思う?」 「百十七歳」 「そう、だいたい、それくらいだ。いや、君が言うんだから間違いないだろう。ついこのまえだが、水上スキーをしようとしたら、みんなに止められた。嫌だね、歳を取るってのは」 「何か、今でも、お役目をなさっているのですか?」 「ああ、つまらないのを沢山。というか、大事な委員会の委員長を幾《いく》つか仰《おお》せつかっているがね、もうわしが具体的な内容にタッチするなんてことはないんだ。単なる飾りものというわけだよ。しかし、まあ、なんだな、そのおかげで、こうして君と話ができるわけだから、うん、まんざら捨てたもんじゃないってことか。良い冥土《めいど》の土産になったよ」 「ご冗談を」 「聞いたと思うが、わしの曾孫《ひまご》になる子がな、ああ、とんだことになってしまった」 「はい、たった今、知りました。まだ詳しい資料は読んでおりません。お嬢様はご無事だったのですか?」 「いや」彼は首をふった。「死んだよ」 「そうですか」四季は目を瞑った。「どうかお気持ちを落とされないように」 「いや、気遣いは無用だ。あとで、どんなふうだったか、詳しい資料を送ろう」 「お願いいたします」 「君にできることが、何かあるかね?」 「たぶん、ありません」四季は首をふった。「残念ですがお力にはなれないでしょう」 「ずばり、殺した奴を突き止めてほしいものだが」 「たとえ、殺人者を突き止めたところで、お嬢様が生き返るわけではありません。それに比較すれば、細胞から生命を再生する技術の方が、はるかに単純明快です」 「うん。しかし、それが生み出すものは既に別の人格だ、代用にもなるまい」 「そのとおりです」四季は頷いた。「先生、それでも、人は、類型の中に夢を見ることが可能です」 「その夢が見られるほど、わしはもう生きられないのだよ。そんなことを言ったら、人間の命など、すべて類型ではないのかね? 人の躰など、人の思考を形にするための類型だ」 「ご賢明な処理かと」 「わかった……。明日にでも、また話せるかな?」 「はい」 「では、明日までは生きていよう。失礼する」  画面のウィンドウが閉じる。幾つかの情報が転送されてきた。堀口が送って寄こしたものだ。四季はインデックスを見てから、各ファイルを順番にスキャンした。写真を撮るように、画面を一瞬にして認識する。これが、読む、と彼女が表現している行為である。 「可哀想」作業を続けながら四季は溜息をつき呟《つぶや》いた。 「何が?」其志雄がきく。「こんなつまらない作業に時間を取られる自分が?」 「いいえ、殺された子が」 「でも、なんとか生き延びたんじゃないの?」 「やめよう、その話は」四季は目を瞑る。「可哀想という感想は、撤回します。私には関係のないことだわ」 「そう、それが歴史っていうものだよね」 「歳をとって、ウェットになったのかもしれない」 「なりたいからなったんだよ」 「そうね」四季は頷いた。「それが人間らしさだなんて、思っているはずはないし。ああ、それとも、仲間に入れてほしいから捧げる生《い》け贄《にえ》みたいなものかしら?」 「誰に対する?」 「私以外のみんな」 「そんな大きな人間はいないよ、全部合わせても、君とは釣り合わない」 「不思議。やっぱりウェットみたい。何かの生理現象?」 「違う」 「ああ、やめておこう、具体的な話はしたくないわ」 「充分抽象的だと思うよ」 「どうして、他人を殺そうとするのかしら?」 「君は、どうして人を殺したの?」 「私の場合は、誰にも迷惑をかけないように、ということで、私の両親を選んだの。親族で残されるのは私一人。他の誰でもない。でも、連続殺人犯は、この逆。他人に迷惑をかけることによって、自分の存在を掴もうとしているみたい。ある意味で、これは芸術と同じ動機だと分析できるわ」 「それを聞いたら、怒る人が多いと思うな」 「つまりは、死体を作り上げたい、死体がほしい、という動機ではなくて、死を作り上げるプロセスにおける自分の感性に注目したい、そこに着眼している、そういう人間なの。おそらく真面目《まじめ》な職について、わりと高学歴で、穏やかな性格を装《よそお》うことにも慣れているでしょう。たぶん、一人で暮らしている。男性ね」 「それくらいのことは、警察だって分析しているだろうなぁ」 「そう……、だから、役には立たないって言ったの」  画面に別の情報が現れる。四季はそれを読みながら、別のことを考えた。  時効が成立したとき、タイムズのインタヴューを受けた。「両親を殺害したのは、それが最も他人に迷惑をかけないからだ」という彼女の単純な主張は、インタヴュアを困惑させた。あの困惑の表情を彼女なりに消化し、極めて僅かだったが、自分の価値観に対する修正を行ったのも事実だった。 「しかし、必要な細胞を救うために、不要な細胞は焼かれる。医者が行うそういった治療は、ある種の殺人と同レベルではないのか。そもそも、何をもって殺人と呼ぶのか?」四季は、ゆっくりとした口調でインタヴュアに問い返した。「人道的という言葉だけの価値観に束縛されている人たちには、きっと理解できない。易《やさ》しく言うと、そういうことです。何故、生きている牛や豚を殺してそれを食べるのか? それは人が生きていくため。では、自分が生きるためならば、何が許されるのか? 生命を奪う相手が人間ならば、それは罪なのか。たとえ、殺される本人が許しても、その行為は罪なのか。豚も牛も、殺されたいとは考えていないはずです。その一方では、時が経《た》ち、待っていれば、人は誰でも皆、死んでしまう。つまり、殺すことが可能なのは、生きている間だけです。生命体は、何故、死ぬのか。新しい生命は、古い生命の死の上に成り立っている。それが自然の摂理。花は枯れて、実をつける。実は落ちて種となる。多くの動物は、産卵のために死ぬのです。では、死が時間的に早まることは、いったいどれほどの意味を持つのでしょう? 結局のところ、抽象できる一般性とは、やれることを、やれるうちにやる、やらないよりは、やった方が何か新しいことを感じることができる、何かを得るかもしれない、そして、得ることによって初めて、何かを拒否できる。また、生み出すためには、常に破壊が必要なのです。新しいものを生み出すという行為は、必ず、拒否と破壊が伴う。生み出すとは、生まれるとは、元来がそういうことなのです。新しさが、古いものの否定にある以上、避けられません」  四季は、そう答え、優しく微笑んだ。  インタヴュアは質問に窮していた。彼が用意した質問は、明らかにどれも、両親殺しの天才、真賀田四季から、人間としての反省、あるいはせめて回顧の言葉を聞き出そうといった意図で用意されたものばかりだったからだ。 「人類はどこへ行くのでしょうか?」彼はそんな質問をした。 「どこへも行かない」彼女は即答する。「けれど、文明は前進しています。歴史的に見ても、大きく後退したことは一度もない。常に、より豊かに、より公平に、より合理的に、より便利で快適に、修正を続けてきました。全体合意が得られているわけでもないのに、こういった正しい方向性を持ち得たことが、人類の持つ最も不思議な力の一つだろう、と思います。この点では、少なからず楽観して良いでしょう。個人の生命を無駄に扱った数々の事例に比べれば、大いに希望が持てます」  彼女自身にも、その傾向はあった。個々のものを抵抗なく切り捨てられるのに、全体の平均的方向性を見失うことはない。これは、たとえば、本能的に生きていける最低限のシステムが、ほとんどの動物に例外なく備わっていることに類似している。食べようと思わなくても、食べたくなる。自動的に生きていけるメカニズムなのだ。  それでは、そういった生の自動システムに関わらない人の頭脳の機能とは、何のためのものだろうか。嬉しさや楽しさを感じる、悲しみや哀れみを感じる部分は、何を目的にここまで進化を遂げたのか。この余分な脳の量は、いったい何をしようとしているのか。  積極的に生きていこうとさえしていない余分な脳によって、人は別の世界を仮想構築し、そこに別の生を投影することができる。その副産物として、あるいは抜け殻として、あらゆる人工物が造られ、技術的な進歩がなされたといっても過言ではない。このナメクジが通った跡のような湿《しめ》った足跡が、人類の歴史といえるものだ。 「ナメクジ?」其志雄が吹き出した。 「濡れようと思って濡れているわけじゃない」四季は説明した。「ただ、余分な水分が滴《したた》り出る、それと同じ」 「パンクだなぁ」 「パンク? ああ、そうかもしれない」 「あるいは、退廃的」  それに類似した印象は、図書館で犀川|創平《そうへい》に対面したときにあった。手に触れる実体としての彼は、そのときが最初だった。彼女は生まれて初めて煙草を吸った。 「君は気づいていないね」 「あ、そうか」四季は気づいた。「今、それに気づくなんて、不思議。どこに仕舞ってあった記憶?」 「どう近い?」 「自分の中に、溶けるような感覚が生まれるの」 「溶ける?」 「そう、固まっていた概念が、流動するような」 「もしかしてそれは、セクシャルなもの?」 「違う」四季は首をふった。 「じゃあ、どんな?」 「もっと、ピュアね」 「矛盾しているなぁ」 「ええ……」 「性的な感覚だって、充分にピュアだと思うよ」 「いいえ、自分の存在を流動化させる、一種の自己犠牲を連想する快感かしら? そう、やっぱりここにも、なんらかの破壊が関与しているわね」 「死への羨望?」 「それが近いわ。ありがとう」 「どういたしまして」 「そういうときって、たとえば、花が綺麗だなとか、空の色が美しいとか、思ったりするの。計算的ルーチンの思考が止まっていることも自覚できる。でも、その状態からの加速感が、また心地良いし、何度でも体験したいわ。今のところ、まだ私は全然|厭《あ》きていない」 「それが、彼を象徴として、現れると言いたいんだね?」 「話題を変えるわ」四季は一度瞬いた。「不等号問題か、多包体結合の話をしない?」 「やめておくよ。少し疲れた。お休み」 「お大事に」      3  真賀田研究所の広い屋上に立ったとき、多少のタイムラグを四季は感じた。  それは、自身とそれ以外のズレ。  だが、僅かに一瞬のことだった。  懐かしい違和感も、またその久しぶりの体感も、近づくヘリコプタのロータ音に掻き消され、現実の時空に塗り込められて、やがて消えていった。  同じこの場所に、立ったことがある。  そのとき、自分の手は血で汚れていた。  あるいは、血で飾られていた。  再び、ここに立ち、  もう一度、  自分の近しい血を、流す。  その血で、自分の手を飾ることができる、  温めることができる、  と考えた。  気持ちは超流動の液面のように滑らかで、不動だった。  もはや呼吸の必要さえないものと感じていたけれど、しかし、自分は生きているのだ、死んではいない。それを考えると、思考の逆流があった。  いつもと同じ。  繰り返し、それがある。  渦。  空にも、そして自分の頭の裏側にも、  渦が回っていた。  あらゆるものを、飲み込もうとしている。  それは、病院の廊下のガラス窓、  そして雨の日の屈折。  拾い上げ覗《のぞ》き見たビー玉に閉じ込められた捻《ねじ》れ模様、  そして網膜の連想。  遊園地の人混みに浮かぶ彼女の滑らかな白い肌、  そして接吻。  それらのいずれもが、  同じ刻みの中に潜むとても近い記憶だった。  何故、自分は、空間や時間を、現実の並びの中で捉えられないのか。  四季はそれをいつも考える。  自分だけにある傾向だろうか。  明確にシーケンシャルな対象のはずなのに、彼女はそれらをランダムに再構築しているのだった。それも無意識に。気づいたときには、こうだった。けれども、このシステムこそ、今では思考型コンピュータのアーキテクチャに応用され、既に構築知性には基幹のストラクチャとなっているもの。  人は、理由を問わずに、あらゆるものを取り込める。  何故なのかを知らずに、そこに同化することができる。  生きものの力とは、この鈍感性にある。  自分のすぐ隣のものを知らずに、生きている。  それができる。  その鈍重さが、生命力。  自分の躰の表面や、その内部に、異物を感じなければ、  死を遠ざけることができる。  それどころか、  自らの中にさえ認知された矛盾を抱え込むことも可能だ。  自然界には、無数の矛盾が存在している。  例外と矛盾によって構成されている、といっても良いだろう。  それらの無秩序に反発して、人は法則性を築こうとするけれど、しかし本来が、そういった法則に従うものなどない。厳密には存在しない。  では、何故だ?  何故、ものは無秩序に存在し、  空間は、それらを許容してここにあるのか。  どうして、秩序もなく引き合ったり、反発したり、  影響を与え合うのか。  存在の疑問が行き着くところといえば、すなわち、  それは既にあった、という認識のみ。  それがそこにあることを許すしかない。  哲学も数学も物理学も、そこから始まり、同じところへ到達するだろう。  そんな幼稚な概念を反芻《はんすう》しながら、しかし、他方では、有名な不等号法則を解きつつ、あるいは、多次元の回転ベクトルの重ね合わせに関する検算を新しい方法で試しながら、四季はヘリコプタに乗り込んだ。  あのとき……、  彼女の頭上で、ロータがまだ慣性を摩擦《まさつ》に換えていた。  機内の独特の臭い。  アルミとプラスティックとポリカーボネート。  操縦席には、新藤清二《しんどうせいじ》が一人だけ。  こちらを振り返り、じっと彼女を見つめて、無言。  既に、交わす言葉などない。  擦《こす》れて消えてしまった。  彼女は、彼のところへ近づいていく。  メータ、インジケータ、コード、スナップスイッチ。  黄色、オレンジ、緑、紫。  ホワイトノイズは、冷却ファンの回転音。  途切れる雑音。  機体の微《かす》かな軋《きし》み。  彼の手が、迎え入れようと動く。  躰をさらにこちらへ向けて、両手で四季を抱こうとした。  接近。  接触。  捕捉。  皮膚が感じる直接的な物体力。  受け止められる。  局所的な、緩慢な圧迫。  圧力と熱。  感じる。  それは、十五年ぶりの感触。  触れずに、愛し続けた、僅か十五年間のスキャニング。  四季は、自分が呼吸をしている速度を認識した。  普通に。  コンスタントなインターバル。  手を差し伸べ、彼の頬に、軽く触れた。  微笑む。  優しく。  そう見えるように。  反応。  確かめ合う。  不合理な信号。 「僕を、殺してくれるんだね?」彼は言った。  彼の瞼《まぶた》が一瞬震える。 「はい、お約束しましたから」彼女は頷いた。  約束。  期待。  願望。  小さい。  とても細かい。  微々たるルーチン。  微々たる生命。  刻み。  傷。  痕《あと》。  何かの拍子に、ちょっとついてしまった傷。  それが、人の約束。  表面的な、すなわち装飾的な、傷痕。  彼女は、計器盤の中にあった丸い時計を見た。  回転ベクトルの計算は既に終わっていた。ロータ音の周期もしだいに長くなる。静寂が、降りてきたオーロラのように柔らかく広がりつつあった。  どこにも触れていない。  既に、ここにはいない。  自分は。  いないようだ。  もう、過去。  なにもかも。  これは過去のこと。  数十年後に、このシーンを思い出すだろう。  今とまったく同じ感覚で。  何度も再生することだろう。  今の体感と、その再生時の差は、ない。  劣化しない記憶のためだ。  完璧なメモリィ。  完璧なシステム。  そんな完璧さの中にあって、何故、それが必要だろう?  約束?  どうして、人間は約束をしたがるのか。  お互いに傷つけ合いながら。  殺し合わない約束をする?  愛し続ける約束が欲しい?  満足を引き延ばす約束を待つ?  再び同じことを繰り返す約束を抱いて。  過去と未来の比較をして、今という時を確かめる。  過去から未来への継承を、魔法使いの箒《ほうき》みたいに欲しがる。  時間のさきに、未来に、  自分の位置を少しでも予約しておきたい、という欲求か。  どうして、その時間のさきに、未来に、  今すぐジャンプしない?  たった今から、すぐにそこへ行けば良いのに、  すぐに実行すれば良いのに、  どうして、無為に時間を待つのだろうか。  なんて非力な。  なんて軟弱な。  時間の流れには逆らえないと諦めている非力。  何もしないことが安全だと信じている軟弱。  時間に逆らえないのは、単に躰だけのこと。  物体でできているゆえに、  質量を有するゆえに、  時空を越えることができない。  けれど、  思考は、もっと自由なのだ。  飛躍できる。  それなのに、何故、その自由までも放棄してしまうのか。  このちっぽけな肉体という器に、どうしてこんなに拘《こだわ》るのか?  死んでしまうような肉体に、すべてを委《ゆだ》ねるのは何故か。  何を見ている?  それは単なる影だ。  どうして、自分の存在を見ようとしない?  どうして、本当の存在を感じようとしない?  神という言葉で逃げる。  運命という言葉で遮断する。  何故だ?  どうして、自分を見放そうとするのか? 「会いたかったよ」彼は言った。  涙を流している。  その濡れた頬に、彼女は触れた。  そっと。  優しさを思い出して。  三次元曲面の不等号領域を空間に展開していた。  もちろん、彼女の目からは、もう涙は流れない。  すなわち、これは過去のこと。  血飛沫《ちしぶき》のシミュレーションを微調整した。  瞳。  お互いの躰を確認し合っても、何も得られない。  指。  お互いの躰を触れ合っても、何もわからない。  そう、何も伝わらないのだ。  何故なら、  すべては、ここにはない。  存在しない。  すべては無。  ここにいるのではない。  ここにいるのは、躰だけ。  躰は、つまり、殻《から》なのだ。  どうして、それに気づかない? 「無線を壊して」彼女は口で指示した。  彼が立ち上がってその作業をする間、四季は一歩後退して、機内の様子を観察した。  この機体で飛び立つ選択もある。  しかし……。 「叔母様は、私の妹のことをお話しになるかしら?」 「ああ」新藤は頷いた。「ちゃんと言い含めた。お願いだ。彼女だけは、助けてやってほしいんだ」 「助ける?」 「殺さないでくれ」 「あの方は、私の血縁ではありません」四季は微笑んだ。事実、それは滑稽《こっけい》な論理だった。「私は、叔父様を助けたいのよ」 「ありがとう」彼はぎこちない表情で頷いた。「僕の場合は、助けるの意味が、反対だ」  そう、反対。  すべてが反対。  秒針を見た。  あと九十秒くらいか。  新藤は作業を終えて、再びシートに腰を下ろした。  既に躰は死んでいるように重たそうだった。  それを知っているのだ。  運命を知っているのに、何故、自分の存在には気づかない。  目を逸《そ》らし、気づかない振りをしている。  最後まで。  生きていることの価値を、何も信じていない。  信じようとしない。  生まれたときから、死にたがっている生きものなのだ。  死を知らないのに。  不完全な知能が、こんな捩《ねじ》れたシステムを育てたのか。  そうとしか、思えない。  これは正せない。  修正すれば、折れてしまうほど、人は脆《もろ》い。  だから、一度思い込んだら、もう直せない。  無理だ。  どうしても、できない。  諦めるしかない。  さようなら。  叔父様。  大好きな叔父様。  大好きだった叔父様。  永遠に。  忘れない。  私は、何も忘れない。  すべて、私のものにする。  さようなら。 「自殺しなくて、良かった。今まで生きてきて、本当に良かった。君に殺してもらえる夢を、何度も見たよ。ああ、本当に……」息を吐き、新藤は口の形だけで笑った。「その救いのために……、今まで、ずっと僕は……」      4  小雨に白く霞む大気。それでも枝を揺らす小鳥が目にとまった。屋外は自分からは遠い。ベッドの上で躰を横たえ、目を瞑って仕事をしていた。幾つかの解決があり、また幾つかの問題が生じた。拡散か収束か、生きているうちに、そのいずれかが見えるだろうか。しかし、解決に要する時間をざっと計算すると、宇宙の寿命をはるかに越えている、という事象が多すぎる。  若干の機能低下を感じた。 「疲れているよ」其志雄が言った。 「ええ」四季は素直に認める。「そのとおり。大した障害ではないけれど」 「退屈しているようだ」 「したくてしているのではないわ」 「多少危険な状況と判断しても良いかもしれない」 「どうして?」 「退屈を打破するためには、それこそ、スパイシィな危険を添加するしかないからだよ」 「危険でなくても、スパイシィなものが、あると思うけれど」 「そんなのは、とうに試してしまったさ。違うかい?」 「うん、そうね、確かに」四季は頷いた。彼の洞察は正しいと思った。「結局のところ、この状態がデフォルトだとキャリブレーションするしかない、ということかしら」 「自分を騙《だま》すわけだね」 「一番騙されやすいのは自分でしょう?」 「本気だね。たとえば、どんな危険が欲しいわけ?」 「うーん、そうね」四季は一瞬で八十通りほどのシチュエーションを思いついた。「デパートへ行ってみたいわ」 「やめた方が良いなぁ」 「何故? インフルエンザをもらうから?」 「それもある。いろいろな意味でリスクが大きい。それに比べて、得られるものといったら……」 「バーゲンの下着くらい?」 「本当に退屈しているようだね。音楽でも聴いたら?」 「どうも、繰り返されるものって苦手なの」 「退屈っていう意味は、そのとおりだよ。普通は、退屈には退屈でもって打破するんだ」 「可笑《おか》しい」 「ありがとう。情けなくなるよ。他には?」 「雨に当たりたいわ」 「風邪をひく」其志雄は言った。「でも、止めはしないよ」  しかし、いずれも、それをしようと思った一瞬のちには、それをしたあとの気持ちになれた。つまり、実行する価値が認められない。したがって、しようと思ったときには、したくなくなる、という悪循環に陥《おちい》る。 「結局のところ、予想外の反応がないかぎり、駄目ね」四季は溜息をつく。 「もはや僕の手には負えないよ」  西之園萌絵《にしのそのもえ》に会ったときの場面を再生した。  研究所の地下、白い部屋。そこにあったディスプレィの中に、彼女はいた。  西之園|恭輔《きょうすけ》博士が彼女を連れてきたパーティ、そのときの飲みもの、炭酸だった、その液面の細かい泡の位置がメモリィからロードされる。  四季は微笑んだ。  楽しさ、面白さ、が一瞬だけ香った。  瀬在丸紅子《せざいまるべにこ》も同じだ。  図書館の資料室で会ったとき、あのときの記憶が最も面白い。四季は途中まで眠っていて知らなかった。其志雄がコントロールしていたのだ。鮮明な印象は、まったく色褪《いろあ》せない。  もう一度、あんな出逢いがないだろうか。  否、きっとない。  それは単に、当時の四季自身がまだ未熟だっただけのこと。  欠けている部分があったから、そこにはめ込まれるパーツを探していた。一度適切な補填《ほてん》があれば、そこにはもう新しいパーツの必要はない。もう一回、壊してしまわないかぎり、無理なのだ。  では、自分は既に達成された形なのだろうか?  たったこれだけしか生きてこなかったのに、  もう完成しているのか?  その香りはしない。  予感もない。  どうも、まだどこかに欠けた部分があって、そこに無限の可能性が残っているような気がしてならないのだ。  あるいは、希望が見せる幻影だろうか。  しかし、実体と幻影の違いは、発生メカニズムにおける僅かな差異でしかない。頭の中に思い描ける形が確かならば、それはその世界に存在しているに等しい。物体としてこの世に存在するものと、脆弱《ぜいじゃく》さは大して違わない。  酸化していずれ朽ち果てる物体に形を投影したところで、持続的な効果は得られない。それなのに、結局はそんな代替物を巡って、人々は争う。争いという行為自体が、最終的には、代替物の破壊を対象としている。何故なら、精神世界の構造物は誰にも壊すことができない、と知っているからだ。精神的なダメージを与えることは、意外に難しい。防御されれば、効果は薄い。そのため、エネルギィ消費の少ない方法を短絡的に選択した結果といえる。歴史上の争いとは、布にできる皺《しわ》と同じ、地表面にできる山脈と同じ。押せば皺になり、引いても皺になる。平衡が崩れるところに生じるのだ。 「また、それを考えているね」其志雄が指摘した。  その指摘があると予測していた四季は、くすっと吹き出した。 「僕を呼びたかった?」 「何をしていたの?」 「ちょっとデータの整理、昔のね。君が記憶しているうち、僕が引き出せるものはほんの一部だけれど、それだけでも、どれくらいあると思う?」 「十進法でいうと、二十から五十乗くらいの間でしょう」 「それはいくらなんでも幅が広すぎるよ」其志雄は笑った。「自分の分解能くらい、把握《はあく》した方が良いかもね」 「無限というのは、幾つからだと思う?」 「変なことをきかないでほしいな。ジョーク?」  彼女は目の前に神聖なる領域を造った。それを展開して見せる。 「これくらい?」 「そんなところかな」  佐織宗尊《さおりむねたか》が死んだ部屋に、彼女は立っていた。 「こんなところか」と誰かが口にした。  数千人の信者を集めた教祖は、普通の死顔だった。  血縁の家族はそこにはいない。  古い信者、あるいは仕事上のパートナたちばかりだ。 「最後まで、四季様のことを、話されていましたですよ」老婆が目を潤《うる》ませながら言った。乾いた手で四季の手を掴み、それを持ち上げて頭を下げた。 「これから、どうするのですか?」四季は尋ねる。 「何も」老婆は首をふった。「もう何もありませんですよ。すべては解放されました。最初に戻りました。また待たなくてはなりませんですよ。また始めなくてはなりませんですよ」 「正しい認識ですね」四季は頷き、それから、佐織の顔を一瞥《いちべつ》し、軽く頭を下げてから、通路へ出た。  医師、看護婦が数名、その次には、やはり信者だろうか、通路の両側に人形のように大勢並んでいた。その間を、四季は一人で歩いていく。  通路の角を曲がろうとしたとき、一人の若者が前に進み出た。 「どうか、四季様……、お願いがあります」彼は言った。 「何でしょうか?」 「お手を握らせていただけないでしょうか?」丁寧な言葉だった。 「何故?」 「きっと、その……、私にとって、それが大切なものになります。お願いいたします」 「頬を打ちましょうか?」 「え?」  四季は、その男の頬を打った。  彼は目も瞑らなかった。  凍ったように、四季を見つめて停止する。 「では……」彼女は頭を下げてから、再び歩いた。  後方から「ありがとうございました!」という叫び声が届く。  馬鹿馬鹿しい。  何を見ている?  どうして自分の存在を見ようとしない?  何が欲しいのだ?  自分が欲しいものがわからないのか?  愚かだ。  下等だ。  なのに、それでも、生きていける。  満足だけを食べて、生きていける。  放っておけば良い。  関わる方が、損だ。  でも……。 「握らせてやれば良かったのに」其志雄が可笑しそうに言った。 「そうね」四季は頷いた。「今なら、それができるわ」 「あのときの君は、与えようとしたんだね」其志雄が言う。「若いというのは、すなわち、分け与える余裕ってことなのかな」 「ドイツ語で言ってみて」四季も笑った。  犀川創平と握手をした感覚が片手にロードされた。  多少驚き、彼女は息を止める。  その片手をそっと顔に近づけ、頬で確かめた。  どうすることもできない、自分の手だった。  海の中へ、彼女は緩やかに戻っていく。  明るいグリーン。  光と泡が動く。  透き通ったブルー。  輝きと闇が混ざる。  閉曲線が躍動して、分裂と統合を練り混ぜていた。  遺伝子の組合せを、今も計算し続けているCPU。  学習を繰り返し、突然変異を待ちわびるネットワーク。  錯覚が、さらに妖艶な光を呼び寄せる。  水の中で、彼は煙草を吸おうとしていた。  四季は笑った。  遠ざかる。  沈んでいく。  深く。  暗く。  どこまでも、どこまでも、深く。  いつまでも、いつまでも、暗く。  黙って、消えていくつもりだ。  待って、と声をかけるにも、ここは水の中。  伝わらない。  言い尽くせない。 「何故、彼を放っておいた?」其志雄がきいた。「君らしくなかったね」 「私らしくない」四季は頷いた。「私らしくないこと、それが、新しい私らしい」 「新しくなることで、切り捨てようとしたものは、何?」 「何だろう」四季は目を細める。  たちまちカウントされ、周辺に候補が降り積もった。  しかし、どれも屑だ。  屑、屑、屑。  しかし、どれも輝かしい。 「子犬が飼いたかったわ」彼女は少女のように呟いた。 「今からでも飼えるさ」其志雄は答える。 「何も知らないときに、まだ、私が私じゃないときに、飼いたかったわ」 「そして、殺してみたかった?」  四季は厳しい表情で、其志雄を睨んだ。 「ごめん」彼は目を瞑り、そして大きく溜息をつく。「そういうつもりじゃないんだ。謝るよ」 「いいえ、いいの」彼女は口もとを緩める。「ありがとう。貴方らしい素敵な意見だと思います」 [#改ページ] 第2章 黒い部屋 [#ここから5字下げ] 好奇心が、強い魅力で人を誘わんでは、どうでしょう、この世の事物が微妙に関連し合っていることをいったい人は知るでしょうか? つまり、人はまず新奇を欲し、次に孜々《しし》として益用を求め、ついにはおのれを高めかつ尊くする善を望むにいたるのです。 [#ここで字下げ終わり]      1 「とにかく、彼女に見抜かれないようにすることだ」チーム・リーダR・Rは言った。 「今までのように、ネット上の対応ではない。君の表情の細かいところまで直接観察されるんだ。ちょっとした視線の動き、言葉の選択、そして僅かな躊躇《ちゅうちょ》。そういったことで、不審な動きを見せないように。たとえば、彼女に会えて感激している、あるいは……、あがっている、そう見せかけるのが得策だろうな」 「わかっています」G・Aは答える。頷くだけで躰に緊張が走った。「大丈夫、地でいくだけのことですよ」  ついに、ここまできた、と彼は思った。もう後へは引けない。 「こちらも、準備は万全だ。あらゆるケースを想定して、検討を重ねてきた。あとは落ち着いて、ミスをしないことだ。とにかく、大きな威嚇《いかく》はないと思われる。もし、少しでも危険を察知した場合には、すぐに計画を中止する。緊急の場合は、君個人の判断で中止しても良い。いいね?」 「はい」 「では、最善を尽くそう」R・Rは椅子を引いて、立ち上がる。  G・Aも頷き、速い息を吐いてから立った。二人は軽く握手をする。R・Rと握手をするのは、実はこれが初めてのことだった。  通路に出ると、スタッフの一人、顔見知りのJ・Pが待っていて、無言で片手を挙げた。彼女も緊張しているように見えた。もちろん、こちらに気を遣って、そう見せているだけかもしれない。  下のフロアで機器のチェックをしてもらった。通信は良好。バッテリィも満充電のものに交換。そもそも、メカニック面における不安はない。  そのあと、武器についても最終チェックをした。こちらも、技術的な問題は皆無《かいむ》だ。これまでに何度、リハーサルをしただろう。予想されるあらゆる場面を再現したプログラムで訓練を重ねてきた。  一番の心配は、これほどの予算を費《つい》やすだけの結果が、はたして得られるのか、という疑問だ。それに尽きる。  我々が追い求めている対象は、本ものだろうか。  G・A自身、半信半疑だった。期待と懐疑がまったくのフィフティ・フィフティといって良い。おそらく、スタッフの誰もが似た状況にちがいない。  真賀田四季という人物について、G・Aは二年まえまで、ほとんど知らなかった。彼の専門領域とはあまり重なっていなかったからだ。研究上、彼女のことが話題に上ったこともない。この組織のシンク・ユニットのメンバとして招集され、こんなにも大勢の人間が、彼女を追跡していることを初めて知った。たった一人の人間にどれだけの価値があるというのか、とそのときは感じたものだ。  しかし、プロジェクトに参画して一ヵ月後には、その最初の印象は簡単に覆った。そして、最終的に彼自身が選ばれ、今のチームに移籍した頃には、自分の認識がそれでも不足していたことを思い知った。専門領域の議論とは別に、真賀田四季に関する数多くの個人情報を短期間に頭の中に叩き込まなければならなかった。それらの多くは、とても信じられないようなものだった。最初は思わず吹き出してしまったほどである。簡単に鵜呑《うの》みにできるような内容ではない。こんな人物がこの世に存在したこと、しかも現代においても生きていること、それ自体が驚異と呼べるだろう。  彼は、何度も四季の夢を見るようになったが、その大半は悪夢だった。プロジェクトのストレスが原因かもしれない。  夢の中の四季は、いつも彼が最初に見た写真の姿だった。まだ若く美しい女性だ。しかし少なくとも、友好的な味方ではない。彼女はかつて罪を犯し、行方を晦《くら》ましている。生死さえも明確ではない。  莫大な富と権力が、密かにこの天才をバックアップしているといわれていた。順当な予測だと評価できる。しかし、なんとかして彼女を見つけ出し、拘束したいという勢力もまた、密かではあるが、それに匹敵するほど大きかった。それぞれが個別に活動していた時期には、どの捜索も実を結ばなかったが、時をかけて徐々に集結し、お互いに情報を交換するようになった。その結果が今の組織である。そして、その頂点に、現在のチームが位置する。G・Aが立たされているのが、まさにその先端だった。  そういった背景に思いを巡らすだけで、神経は高ぶる。既に数週間、眠るために薬が必要だった。だが、下りるわけにはいかない。ここまできたからには……。  当然ながら、G・Aが関知しないところで、別のプロジェクトが同時に動いているはずだ。そう考えることで、少しは気休めになった。それに、たとえ失敗しても、命を取られるようなことにはならないだろう。自分一人がお払い箱になって、また別のチームが組まれるだけのこと。いったい、今回は何度目のチャンスなのだろう。そういった情報はG・Aには与えられていなかった。少なくとも過去には一度も成功していない、ということだけは明らかだ。  四季とのコンタクトおよびコミュニケーションには、各分野の専門家で組織されたシンク・ユニットが全面的に関わった。G・A自身も最初はその一員だった。しかし、その時点では単なる傍観者に過ぎなかった、といって良いだろう。ネットワーク上で、それらしい人物が発見されると、数例の囮《おとり》を使った作戦がスタートする。そして、数百という中から、本ものらしいものが絞られ、その厳選されたものだけが、シンク・ユニットに託される。彼らは、個々の対象それぞれについて対応を個別に検討する。天才が興味を持ちそうな新技術をそれとなく忍ばせる。極めて慎重に最先端の成果を垣間《かいま》見せる。たとえそれが実現していないものでもかまわない。つまりは疑餌《ぎじ》なのだ。  ネット上で行われたやり取りを、あとから上層部に解説するためのレポート作りが大変だった。もちろん内容は理解できるはずもない。少しでも専門から離れれば、G・Aにもわからなくなる。専門家が何人も手分けをして調べ回ることも頻繁《ひんぱん》にあったほどだ。  だが、そういった苦労が必要なケースは、つまりは確かな手応えの証《あかし》である。レベルが上がってくると、メンバたちはしだいに本気になり、相手の知力、そして発想に唸《うな》るようになる。確信とはいえないまでも、真賀田四季に近い人物だ、という判断はできた。  苦労ばかりでもない。興奮を伴うような楽しみも一部にあった。抽象的な言葉のやり取りは、実にスリリングで面白い。そういった受け応えが、リアルタイムでできるように、G・Aは特別なプログラムで訓練を受けた。当然ながら、無理があるため、無口な人間を装う以外にない。それでも、気の利《き》いた少ない単語を口にする必要があるだろう。もちろん、言葉だけではなく演技も。だが、それも、デフォルトの彼に近いものだったので、苦しいノルマではなかった。  耳の中に入れたレシーバによって、キーワードはリアルタイムで送られてくる。ここでもシンク・ユニットがバックアップをする。ただ、僅か数秒間のタイムラグは生じる。これを、会話の際にどう繋ぐのか、それだけは彼の技量に依存しているのだ。  今回の相手は、一年八ヵ月まえにネット上に現れた。途中で半年ほど音信が不通になったことが二度あった。三ヵ月まえにアクセスが認められ、別のハンドルで学術系の掲示板に現れた。新しいハンドルが〈ブラジル人の妻〉だったので、BWと呼ばれている。  BWは、あらゆる評価基準を次々にパスして、ランクはたちまち上がった。現在のチームへ情報を回したのが、二ヵ月まえのこと。本格的にプロジェクトが始動したのもその直後だった。  同チームにおける実プロジェクト対象は、通算で十三人目になるらしい。現在も、同時にマークしている候補が他に二つある。一ヵ月まえには、最終的なゴーサインが下り、チームのメンバは一挙三倍に膨《ふく》れあがった。  それからというもの、今まで以上に情報管理が厳重になり、また相手への対応も慎重になった。そして、実際に何らかの受け渡し、あるいは個人的面会へと事が運ぶように、二週間ほどでシナリオが練られた。  どうにか大きな失敗もなく、最終段階へ近づきつつある。  G・Aの緊張も、これまでにないレベルに達していた。はたして、これがピークだろうか、と彼は毎日考えた。      2  四季は遊園地の中を歩いている。雨の平日の夕暮れどき、入園者は少ない。彼女は買ったばかりの傘をさしていたが、その傘を持つ手をときどき交換した。生きていくことの面倒さを象徴するような行為だった。  クラシカルな石畳の表面は湿潤し光を反射している。ところどころに小さな水溜まりができていた。ベンチには誰も座っていない。半分以上、彼女は下を向いて歩いていた。ときどき顔を上げ、カラフルな縞模様のテント屋根、スナックを売る移動式の店舗、そして、こちらを見ている人間を確かめる。いつも誰かが見ていた。珍しいのだろうか。確かに一人で歩いている人間は多くはない。  いろいろな音楽が耳に入ってくる。アトラクションの音やそれに伴う歓声もときどき届く。動いている機械、繰り返されるアナウンス。どれもが人工的で装飾的だった。  叔父と一緒だった夜の花火も鮮明に再現できた。甘い火薬の香りも、人混みの喧噪《けんそう》も、叔父の手の温もりも。  あの夜は、大勢の人間に会った。  まるでパーティ。  一番印象的だったのは、彼女の首を絞めて気絶させた男。その彼を追っている警察の男、そして女、わざわざ会いにやってきたロバート・スワニィ、そして各務亜樹良《かがみあきら》。みんな若かった。炸裂する花火のように、僅かに遅れて輝かしい。網膜の残像を消しながら落下していく。暗闇の煙は見えない。光らないものは、光るものに隠される。光るものはずっと注目され、光らないものはずっと隠れている。香りだけが周囲に漂《ただよ》い、光るものにリンクして、人々に記憶されるけれど、その香りの正体は、光らないものにある。  人間のダイナミックな思考の根元には、こうした無意識の飛躍を積み重ねて築かれるネットワークがある。明らかに性質の違うものを、属性の異なるものを、ときとして関連づけなければならないためだ。それはつまり、関連づけられない未熟さに起因しているのだが、しかし、それを許容する楽観がバックアップする。いうなれば、その不完全性を許してしまえる大らかさが、発想の飛翔力を育てるのだ。これは偶然に成されたものだろうか。機械の中に、このような曖昧《あいまい》さを取り入れることで、本質的な模倣が可能だろうか。  手足を縛り上げられ、意識が戻ったときに、彼女は恐怖を感じなかった。どうしてだろう? 人間に備わったこの防御システムの迅速さは、他のすべての機能とは対照的だ。鈍重なシステムの中にあって、どうして、このリスク許容機能だけが、これほどまでに素早く立ち上がるのだろう。死を受け入れる、生を諦める、個の存続を簡単に放棄することができる、むしろ一瞬で、早く終わってほしいとさえ願う心理は、その潔《いさぎよ》い精神は、どこから来るものだろうか。 「こんな場所を、自分の部屋の中に造ったらどうかな?」其志雄がきいた。「楽しいこと、何か見つかった?」 「出てくると思ったわ」四季は歩きながら応える。 「あれをやってほしいなぁ、ほら、射撃」 「どうして?」 「誰が狙いをつけて、誰が引き金を引くのか、それが見てみたい」 「射撃なんてもの、あるかしら? ないと思うわ」 「できれば、僕は引き金を引く役の方がいいよ」 「話題を変えましょう」四季は小さく溜息をついた。「人に会おうと思っているの」 「知っている。若い男だね?」 「年齢も性別も関係がないわ。幾つか情報を交換したんだけれど、見どころが少しある」 「うん、君が言うんだから、あるんだろうね。僕は駄目だよ、人を見る目がそもそもない。少なくとも、会って本人を見るまえには、それがない」 「それは、観察するエネルギィ分の見返りが、貴方にはない、という意味でしょう?」 「そうだよ、初期の太陽発電、あるいは、宇宙ステーションの重力発生機構のジレンマと同じってところだね」 「いずれも解決しているわよ」 「そう? それは知らなかった。最近、そちら方面は勉強不足なんでね。ああ、そうか、もしかして、もうそろそろ記憶領域の限界かもしれない」 「共用すれば済むことでしょう?」 「この躰のようにね」 「ソフトクリームを食べても良いかしら? お腹を壊したりしない?」 「さあね」其志雄は笑った。「それよりも、四季、未知の人間との最初のコンタクトは、できれば気をつけた方が良い。ダイレクトはあまりにもリスクが大きいよ」 「それは向こうにしても同じことね。だけど、具体的にどんなリスクがある?」 「極端な場合には、いきなり殺されるとか」 「別にかまわないわ、私」 「うん、僕も……、実は、どうってことない」 「それじゃあ、良いってこと?」 「掴まえられて、嫌な思いをするかもしれない」 「どんな?」 「うーん、何かの試験体にさせられるとか」 「面白そう」 「やめようこんな話は」其志雄は首をふった。 「ごめんなさい、気を悪くしないで」 「大丈夫。ありがとう」  刑事の背中に躰をあずけている感覚が浮上した。  この男が、瀬在丸紅子の夫だ。  殺してやろうか、と彼女の一部が確かに考えた。  くすっと四季は微笑む。実に微笑ましい感情ではないか。  自分が可愛いと思う。  図書館の前ですれ違った犀川創平の映像を取り出した。  三回繰り返して再生。  このときには気づかなかった。彼は覚えているだろうか。  記憶には残っていても、取り出せない情報もある。普通の人間ならば、その割合は非常に多い。取り出しにはキーが必要だということを知らないと、特に難しい。キーを自由にコントロールできなければ、それは「忘れた」状態になる。忘れたという信号の記憶に余分なメモリを使って、忘れた状態を作るのだ。まるで、手間をかけ鍵をかけるように。  こうして蓄積された記憶は、単なる形に過ぎない。  地層となって、化石となるもの。  ということは、化石のように、ずっと未来に、つまり生命の死後に取り出せる記憶が、存在するということか。脳信号の解析技術はまだ充分に一般的なレベルでは確立されていない。当然ながら、生前の信号解析が精確に行われれば、死後についても可能性や範囲が大きくなるだろう。幾つかの文献を当たって、数秒間再検討してみたが、結論は出なかった。 「何を考えているの?」其志雄がきいてきた。 「観覧車のライトアップが素敵ね。回転方向と反対に回って見えるようにライトを点滅させれば面白いのに」 「君が、そんなことを考えているはずがないよ」彼は笑った。気を利かせて笑ってくれたようだ。「それじゃあ、まるで……」 「西之園萌絵」 「そう……、懐かしいね」 「懐かしい? それ、私には言葉でしか理解できない概念だわ」 「忘れそうになるけれど、何故か消えていかない特殊な記憶に近い、という意味だね」 「キーの問題ね」 「そう」 「近いっていうのは?」 「何だろう?」其志雄は肩を竦める。「なんとなく、その、距離みたいな概念かなって……」 「観覧車に乗ってみる?」 「どうぞご自由に」  彼女はそのアトラクションの方へ向かった。幸い列に並ぶこともなくすぐに乗ることができた。ベンチの片側に座ると、ゴンドラが少しだけ揺れた。 「躰は一つだから」彼女は呟く。「誰も、同時に両側に座ることはできないわけね」 「線路のレールも二本」 「リングの外を向くか、内を向くか、どこで選択したのかしら」 「人間の心の目もそうだね。半分で逆になるよ」  西之園萌絵のことを考えた。  当時は気にならなかったことだが、今になってみると、微妙に彼女の特異性が見えてくる。最後まで覗き見ることができなかった、彼女の心の中のあの不思議な一角は何だったのだろう。死角というよりも、それは見る角度によって形や色を変えた。まるでホログラフのように掴みどころがない。目を離した隙にたちまち消えてしまうほど弱々しいのに、いつもその影が、内側にあって、彼女の中心を取り囲んでいるようだった。 「πのような存在かしら」 「パイ? ああ、西之園萌絵の死角のことだね」  構築知性の発展的学習には、それがキーとなる。四季はその予感に関する思考を別のところで継続することにして、再び観覧車の周辺に観察の目を戻した。既に地面は低く遠ざかり、這うように歩く人々が小さく見えた。  駐車場を見下ろす犀川創平の視点へ、  数秒間の飛翔。  そして、空白。  呼吸を再開し、明け方の浜辺のなだらかな傾斜を再生した。  砂の上を、足跡もつけずに歩いた。  光は迷い、空に拡散しようと蠢《うごめ》いている。  波とシンクロする歩調と呼吸。  ガラス瓶に入れた手紙みたいに、  ずっと遠くへ送ったメッセージだった。  手を出して、引っ込める。  干渉を試した。  他人と自分の視点と思考の往復。  交わす。  交わる。  アクセスのプロトコルを確かめ合った。  同調。  そして調和。  細かい振動が伝播《でんぱ》して、  彼女の体内の脈動に影響を与えた。  あれは、何?  仕組みのわからないものが、この世にはある。  わからない?  そう、わからない。  それを許すことが……、  すなわち、  生きるという逆流。  流れを遡《さかのぼ》る異端。  だからこそ、  矛盾を放置する。  秩序を放棄する。  脳裏に放電する。  天空に放流する。  展開し。  展望し。  嬉々として待ち、  孜々《しし》として励み。  回転の中に、回転があり、その回転の中にまた回転がある。  何重にも回っているネストの階層。  単純を重ね合わせて複雑を成し、  その複雑を遠望して単純を育《はぐく》む。  ガラスに反射する光。  自分の手を見て、その形の異様さにいつも驚く。  細胞の集積。  血液が運ぶ酸素。  螺旋に刻まれた配列。  しかし、やがて、躰の表面の温度や圧力に注意は戻る。  作られた機械が生きていくように、自分は動いている。  しばしば、過去の方々の記憶がポップアウトする。  まだ小さかった頃に見たものが、今見ているものと同じ状態で蘇る。多くの視野が、同時に展開し、多重のパノラマとなって一度に認識される。  すべてを同時に見る。  すべてに同時に触れる。  頭上を飛ぶ小さな蛾を目で追う。  路傍の雑草の葉を滑る水滴に指を差し出す。  同時に分子構造の立体を回転させ、繰り返しの連鎖を確かめる。  再び通ることのない道を、  そのパースペクティブを、  眩しく、涼しく、軽く、清く、瞳に留める。  後ろを振り向くことはなかった。  一度も。  振り向こうと思ったときには、既に見えるからだ。  愛するものは、悉《ことごと》く自身の中に導いた。  そこに閉ざし、  そぎ落とした。  シャープさを失わないように、磨いた。  愛するように、磨き上げた。  貫けないものはない。  受け止める楯《たて》はない。  満天の星の下にも、  稲光の嵐の中にも、  すべて同時に立つことができる。  しかし、  この累積は、どこへ向かっている?  ここは、どこだ?  ゴンドラの粗末なドアに、彼女は目を向けた。 「外に出ようなんて、考えないでほしいな」其志雄が低い声で言った。「ご免だよ」  まだ最高点には達していない。  回転は遅い。  人間のように遅い。  彼女は溜息をつき、遅れて、微笑んだ。 「面白そうね」      3  G・Aは、その遊園地が初めてだった。コンタクトがこの場所に決まったのは、つい今朝のこと。チームは大慌てで資料を揃え、態勢を整えた。だが、現地に調査に出向くことはできなかった。時間もなく、また、それはあまりにも危険だからだ。なによりも、その時間にG・A自身が到着することが、ぎりぎりだった。近くもなく、かといって遠くもない場所が指定されたことは、予測の範囲外だったけれど、それで計画を変更するほどの問題ではない、と判断された。  結局、真賀田四季が見にくるのは、見ようとしているものは、おそらくG・A自身らしい、ということがチームの見解だった。何故ならば、他のすべてのものはネットで受け渡しが可能である。最新型の細胞活動支援システムも、その現物は単なる小さなチップとセンサに過ぎない。しかも、技術の大半はソフトウェアなのだ。実物を見て触れることに価値がある代物《しろもの》ではなかった。  G・Aは、もちろんチームの作戦ではあったが、四季に傾倒した若き学者を演じていた。熱烈なファンとして、是非とも会いたい。しかし、BWに対しては一度も、ドクタ・真賀田の固有名詞を出すことはしなかった。こうした具体的な語句を使用せずに、こちらの意志を示すこともまた、チームが過去の経験から学んだノウハウの一つだった。 「ようするに、ラブレターみたいなものだ」リーダのR・Rはそう言った。「仄《ほの》めかすんだよ。あれこれ、際どい表現を駆使してね。しかし、絶対に核心の言葉を表に出してはいけない」  G・Aはその種の慎ましいラブレターを知らなかったので、リーダの意見には同意できなかったが、しかし、理屈はそのとおりだと思った。これは、直接会ったときにも応用できる教訓かもしれない。 「ラブレターか」彼は思わず呟いた。 「ラブレターがどうかしたのか?」R・Rの早口の声が右の耳の中で聞こえる。「どうした?」 「あ、いえ、なんでもありません。独り言です」歩きながら、口もとに手をやり、口が動くことがわからないように話した。 「紛《まぎ》らわしいことをするな」  G・A自身よりも、むしろチームのメンバたちの方が緊張しているかもしれなかった。前線はいつでも自分の判断で視点を変えることができる。前線の様子を窺っている彼らは、そうはいかない。情報が遅れ、対処も遅れる。そのために生じるプレッシャが強い緊迫感を生むだろう。  さて、相手はどんなふうに現れるか?  もちろん、一人で来るとは思えない。代理の人間が現れる可能性が極めて高い。今日のところは、こちらの出方を見極めるだけ、ということもあるだろう。もしかしたら、これが最初で最後になるかもしれない。そういった控えめな予測が、G・Aを逆に落ち着かせた。もう、ここまで来たら、早く終わってほしいだけである、無事に、何事もなく。  現在、およそ二百名に近い要員が、G・Aを中心とする半径五百メートルほどの範囲内に待機している。半径百メートル内には三十人ほどいるはずだ。G・Aとほぼ同じ速度で、目的地へ移動している者もいるだろう。考えてみたら、もし本ものの真賀田四季が今からここへやってくるとしたら、彼女は、その大勢の要員のうちの誰かのすぐ横を通り抜けてくることになる。それでも、網の目はまだ大きい。ときが来れば、あっという間にそれは窄《すぼ》まるはずだ。何一つ逃さないだろう。作戦としては原始的だが、この戦術よりも確実なものはない。  しかし、これは戦争ではないのだ。  犯罪者の逮捕でもない。  既に時効は完全に成立している。  自分たちは、公的な機関ではない。  それよりも、もっと大きい。このプロジェクトは国際的なものだ。これだけの組織が動けば、当然、外部へ情報が漏れる危険性が高くなる。真賀田四季よりも、この国の警察機構、情報機構、あるいは、どこかの企業に、こちらの動きを察知されることの方がむしろ不安だった。その意味では、場所がつい数時間まえに決定したことが、かえって好条件だったと考えられる。  若者や、子供連れの家族とすれ違う。背景のように、それらはG・Aにとっては無関係のものだったが、何もない荒野よりは、多少は安心できる場所といって良かった。  これまで無意識に、都心の地下の喫茶店、といった雰囲気の場所を想像していたので、遊園地というのは、多少意外だった。その微妙に不自然な選択の理由を、BWにはあえて尋ねなかった。その対処は正しかっただろうか。 「目的地確認」G・Aは百メートルほど手前で報告した。 「よし、あとはもう話すな」R・Rの指示である。  周囲の群衆をざっと眺める。それから、個々の人間にフォーカスを合わせて確認した。初めての人と会うのであるから、自然な仕草のはずだ。それらしい人間は見当たらない。ほとんどは小さい子供を連れた家族連れだった。  小さなトロリィ電車がストリートを通り過ぎていく。お伽《とぎ》の国のカラフルな建物がその向こう側に建ち並んでいた。G・Aはゆっくりとそちらへ近づく。  時刻はジャスト。計算どおり。どの角度から相手が接触してくるのかを考える。少なくとも、立ち止まって人を待っている様子の人物はいなかった。      4  観覧車を降りて、次は回転木馬に乗りにいった。すぐ近くだった。昼間の回転木馬は、スピード感が半減する。周囲に流れる視界の広さのためだ。  各務亜樹良と会った日をランダムに、しかしすべて、頭の中のテーブルに広げてみた。それぞれのウィンドウで、彼女が動き、話し、そして四季を見つめて頷いた。半分はサングラスをかけていたが、残りの半分は、上目遣いに独特の冷たい視線を投げかけていた。彼女の口はほとんど動かない。その形が最適だということを知っているかのようだった。  特異な人格である。自分のことを語りたがらない、プロテクトの固い精神、それでいて外界に敏感な神経、展開の早い思考。おそらくは、過去にあった凄惨な体験に起因すると考えられる。それを放棄したのか、あるいは克服したのか。あのようなバランスの取れたシステムをどこで手に入れたのだろう。自分と他人の力の差を把握する俊敏さは、まるで野生の猛獣のようだった。一方では、躊躇を一瞬で覆い隠す凄まじいまでの防衛反応。不思議な人物だった。  幾度か、彼女が書いた文章を読む機会はあったが、そこには、彼女自身の内側は微塵《みじん》も表れていない。主観を排除した冷徹な観察眼だけで綴《つづ》られている。残念ながら、そこに亜樹良はいない。したがって、彼女の文章を読む価値を、四季はまったく感じなかった。  あの男と暮らしているのだろうか。  亜樹良と一緒にいたところを目撃したのは、最初のただ一度だけだ。  彼もまた、非常に特異な精神の持ち主だった。亜樹良と構造がよく似ている。外側からは見えない。見られることを拒んでいる。理解されることを怖がっている。  木馬の背に腰掛け、加速度による浮遊感を、そして自分の躰の質量を、楽しんだ。髪は揺れて頬を擽《くすぐ》る。支柱を掴んだ指には冷たい反力と無邪気な振動。空気が襟元から入り、背中へ回り込む。袖口で布がフラッタを起こしていた。板で作られた円弧のエッジ、ペンキを塗り重ねたボルトの頭、馬の頭に埋め込まれたガラスの瞳、追いつかない、そして抜かれない、競走。  いつの間にか、四季のほとんどが仕事を中断して、外界を眺めようと上がってきた。 「賑《にぎ》わっている」其志雄が言った。「みんな、これが好きなんだね。何だろう? 不思議に安心できるから?」 「等角速度運動が? それとも円筒側面上の正弦軌道が?」 「もしかして、ここで生まれたのかも」 「どういう意味?」 「ジョーク」 「惑星の運動の話かと思ったわ」 「そう思わせたジョーク」 「乗っていて、気持ちが良い?」 「そう。そうでないとはいえない」  新藤清二との二人だけのドライブも同じだった。  あれのサブセットといって良いかもしれない。  あの夜のドライブも、そのあとの時間のサブセットだった。  不思議なフラクタル。  しかし、その時間を再生することは、あえて避けている。  躰が感じたことは、些細《ささい》なこと。  何を考えたか、  何を感じたか、  そこから何を得たか、  何を発想したか、  それが重要なこと。  その方向が前であって、今もその方向へ進んでいるのだ。  幾つかの前があるけれど、あのときは、そのベクトルが、確かに強かった。ハイウェイのように滑らかにカーブして、彼女の存在を力強く連行した。あの加速感は今でも新しい。  今でも、この手に、この瞳に、現れる。  温かさ、あるいは、輝き。  彼を愛していた。  その気持ちが、彼に伝わっただろうか?  四季は、それを知らない。  言葉では確かめられない。  彼は、四季のことを恐れていた。  最後まで、特殊な姪のことを、恐れ、慈《いつく》しみ、尊《とうと》んだ。  愛しただろうか?  愛されただろうか?  あれは、交換だったのか。  その確信は得られない。  検証する方法もない。  そういったことができる人間はいない。もしかして、科学的な方法で可能になるだろうか。他人の深層心理を観察することができるようになれば、あるいは可能かもしれない。しかし、その観測によって、深層心理は即座に別ものに変貌するだろう。  結局のところ、物理的な観測とは、単に表面が外へ向けて放射するものを拾う行為に過ぎないのだ。  温度を感じ、浮遊する粒子を取り込み、物体力によって変形する細胞群が神経を刺激する、それだけのことだ。  太古の歴史が作った連鎖と、生まれたあとに形成されたネットワークにも、根本的な差は見られない。  回転木馬を下りて、またしばらく歩いた。  じろじろと彼女を見る子供がいた。四季は微笑み返す。  既に彼女の大半は仕事に戻っていた。躰を歩かせることに集中する面白さを味わいながら、周囲の人々を観察した。こういった人混みでは、沢山の人間を一度に見ることができる。かつて見た顔に出会うことも多い。一瞬で過去のデータを照会し、いつどこで見た人物かを確認する。また、その差分から、その人物の環境を推察する楽しみもある。かつて見たことのある同じカップルに遭遇することも面白い。  しかし、こういった群衆観察が本当に楽しかったのは、四季がまだ子供だった頃だ。今はむしろ、それに没頭する自分を懐かしく見守ることの方が優位だった。  人は、躰の変化以上に精神的な変化を経験する。それはまるで、袋を裏返しにするときのように、内側のものが外側に、外側のものが内側に移るプロセス。一生の間に、それを一度、あるいは二度、多い者は三度、繰り返す。甲殻類の脱皮のように、そうすることで精神構造をバージョンアップしようとするのだろう。 「君は何度、それを繰り返した?」其志雄がきいた。 「さあ……、どうかしら」 「僕が見たところでは、まだ一度も裏返しになっていない」 「最初から、裏がないのかもしれないわ」 「袋の形態を成していない、ということかな?」 「そうね。外側から内側に何かを取り込むという機能が、私には不要だった」 「なるほど。それとも、入れるものが多すぎるから、最初から包み込むことを放棄していたのかも」 「言葉だけの問題で、それは同値」 「さっき、新藤清二の記憶に触れたよね? 失礼かと思って遠慮していたけれど、やっぱり、いつかはきかなければならないと思っていたことがあるんだ」 「何?」 「彼が命乞いをしたら、殺さなかった?」 「当然です」 「では、何故、彼は命乞いをしなかったのだろう?」 「それが、私に対して愛情を示す唯一の方法だと彼は考えた」 「君は、それを評価する?」 「ええ」 「だから期待に応えて、殺したの? それが、彼の愛情に応える唯一の方法だと考えたから?」 「いいえ」四季は首をふった。「それが、彼の愛情に応える唯一の方法ではなかったけれど、ただ、彼の手前、それが唯一の方法だと考えている振りをしただけ」 「そうか……」其志雄は頷いた。「彼に合わせてあげたんだね」 「ええ」 「彼がいなくなって、淋しくないかい?」 「どうして、淋しい? 生きていても、叔父様は私のすぐ横にずっといらっしゃったわけではないのよ」 「君が過去の記憶をすべて鮮明に再現できることは知っている。劣化しない歴史は、もう歴史とはいえない、すべて現実だ。君の現実は、空間も時間も越えている。それはわかる。しかしその場合、君にとって、実在する人間と、死んでしまった人間の差は、何?」 「わかっているくせに」 「老いて劣化していく人の躰を観察することは、面白いとはいえないけれど、まさかそれを拒絶している、というわけではないよね? そんな概念に縛られるなんて、君には無縁のはず」 「でも、誰だって、見たいチャンネルにくらい合わせるでしょう?」 「死んでしまった者は、新しい発想を見せてくれない。それだけが違っている。答はこう?」 「ええ。でも、その人物の思考形態をある程度把握すれば、何を発想するかは、ほぼトレースできるわ。アルゴリズムが完全にコピィされれば、そのプログラムのあらゆる挙動を予測できるのと同じ」 「そう、だとすると……、死んでしまっても、君の中では、その人物は生きているのと同じことなんだね?」 「そういえると思うわ」 「ならば、彼が首を吊ったとき、どうして君は泣いたの?」 「貴方が、その疑問を口にできるようになったことを、私は嬉しく思います」 「はぐらかさないでほしい。真面目な質問だよ、四季」 「私は、其志雄が首を吊っているのを見たとき、泣きませんでした」 「では、言い直そう。君は、其志雄が死んでいると予測した、そのときに、泣いただろう?」 「覚えていない」 「それはないだろう」其志雄は笑ったような口調で言った。「君には、思い出すなんて概念もないはずだ」 「彼は、私には未知の存在だった」四季は答える。 「どうして?」 「わからない」 「何故、未知だと思った? 何度も会っていたのに、君が彼を把握できなかった理由は?」 「どうしてかしら」 「彼が、それだけ大きかったから? 違うよね。少なくとも、僕にはそうは見えなかった」 「ええ、それは認める」 「では、何だろう?」 「貴方、もしかして理由を知っているの?」 「知っているよ」 「教えて、何故?」 「君が、彼を把握できなかった理由は、たった一つしかない。君が、彼を把握したくなかったからだ」 「どうして、私はそう思ったの?」 「君は、其志雄のことを好きだった?」 「大好きだった」 「それが原因だよ」  四季は首を傾げ、膨大な計算を実行した。莫大なデータが、組み合わされ、再構築された。鼓動は速くなり、彼女は深呼吸をして酸素を取り入れた。 「そうだったかもしれない」四季は呟いた。「ありがとう。良い指摘だったわ」 「君にはその傾向がある。犀川創平のときもそうだった。君は、彼を把握しようとしなかった」 「あれは、あの子のために……」 「西之園萌絵?」 「そう」 「それは表向きの理由に過ぎない。そうじゃない」 「そうね」四季はまた深呼吸をした。「私は、そう……、そういったことに関わるなんて、また同じ事を繰り返すだけだと予測した」 「そうだ」 「何が私にそうさせると思う?」 「期待かな」 「期待?」 「それとも、絶望からの回避」      5  群衆の中にG・Aは立っていた。彼はスーツにネクタイという、この環境では目立つファッションだったが、誰も彼のことを気にするような者はいなかった。声と笑顔が、彼の周囲を流れていく。G・Aは、自分に近づいてくる者にだけ注意を払っていたが、数メートルのところで、誰もが向きを変えた。右を見て、左を見る。後ろは建物の壁が間近だった。十数メートルのところに売店がある。その近辺が一番の人集《ひとだか》りだった。ベンチが並び、どれもほぼ満席。空気は冷たかったものの、鮮明な日差しがそれを補っていた。  幾度か、R・Rから無線で連絡が入った。新しい情報はない。既にこの近くに、包囲網は集結しつつある。しかし、G・Aのところからは何も見えない。そういった様子は微塵も感じられなかった。平和な遊園地に、絞り出すように無邪気さを産卵しにきた人々が、自然の摂理に従って動いているだけだった。  G・Aの右手に、突然触れる者がいた。  彼の視界になかった背の低い子供だった。女の子だ。彼女の小さな手が、彼の手を掴もうとしている。  髪の長い少女で、近くに親らしき者も見当たらない。彼が見つめると、にっこりと微笑み返し、斜め後方へ向かって指をさした。それから、掴んだ彼の手を引っ張る。 「どうしたの?」彼はきいた。  しかし、答はない。  彼は、その少女に従って歩いた。十メートルほど行ったところで、少女は階段を上ろうとする。彼女にとっては、限界に近い段差だった。G・Aは階段を見上げる。上は、アトラクションの乗り場のようだ。どんな乗り物なのか、わからない。固有名詞を読んでも想像ができなかった。 「ごめんね。僕、ここで人を待っているんだよ」彼は少女に優しく言った。「これに乗りたかったら、お母さんか、お父さんに頼まないと駄目だ」 「上で、おじさんを待っている人がいるわ」少女は初めて口をきいた。小さな口から出た言葉にしては、充分に大人びていた。 「え? どうしようかな」困った顔をしてみせる。しかし、否応なく緊張は高まった。  R・Rは少女に従うように指示をするだろう、と考えた。しかし、イヤフォンからは何も聞こえない。  もう一度、周囲を見回してから、G・Aは少女を助けながら階段を上っていくことにした。  大きな建物の入口へ通じている。別のところからも橋を渡って大勢が詰めかけていた。少女が引っ張る方向へ歩く。矢印の順路を奥へ進んだ。  乗り場の手前で、行列に並ぶことになる。二十メートルほど、二列になって数十人の人々が並んでいた。G・Aのすぐ前には、男女のカップル。振り返ると、後ろには若い女性が二人。自分と少女は親子に見えるだろう、と彼は思った。  少しずつ前進している。 「これに乗るの?」G・Aは少女に尋ねた。  彼女は上を向き、笑顔を見せて頷いた。もう彼の右手を握っていなかったが、彼の上着の端《はし》を掴んでいる。  乗り物はカプセルのような形状で、シートが二列で、四人乗りのようだった。それが、五メートルほどの間隔でトンネルの中へゆっくりと入っていく。年齢や身長の制限もなく、また、ベルトを締めている様子はないので、スリリングな思いをさせるものではなさそうだった。  太鼓のリズムがずっと聞こえている。それが何を意味するのかわからないが、聞こえてくるアナウンスによれば、タイムトラベルを体験させようという趣向らしい。そういえば、階段を上るときにあった看板に恐竜の絵が描かれていた。そういった通常の観察に神経が注《そそ》がれていなかった。たった一人の人物を認識することに、彼の神経が集中していたためである。  カプセルに乗る順番が近づいてきた。 「君の位置は把握している」R・Rの連絡がようやく入った。「安心しろ、今のところ異状はない」  G・Aは頭を掻く動作をした。それがサインだった。  前のカップルが乗り込み、その次のカプセルが右から移動してくる。 「お二人ですね?」係の者にきかれたので、彼は頷く。  G・Aは少女をさきに乗せ、自分も乗り込んだ。後部シートは使われない。列の後ろにいた女性たちは、次のカプセルに乗ることになる。既に、微速でカプセルは前進していた。  突然、隣の少女が立ち上がって、カプセルから反対側へ出た。そちらは、降り口のプラットホームだ。G・Aは一瞬腰を浮かせたが、彼女は振り返り、彼に手を振ってから、出口通路へ駈けだしていった。 「一人で行けってことか」彼は舌打ちし、呟いた。もちろん、無線連絡を意識した独り言である。  カプセルは止まることなく前進し、トンネルの中へ入った。  暗くなった、そのとき、隣のシートに誰かが乗り込んできた。髪の長い女性だ。良い香りがした。しかし、既に真っ暗闇に近かったので、彼女の顔は見えなかった。 「こんにちは」綺麗な声だ。 「こんにちは。びっくりした。どこから来たの?」G・Aは尋ねる。鼓動は加速し、息が震えていた。だが、できるだけフランクに振る舞った。訓練したとおりにできた。 「私が、誰か、知っていますね?」彼女はきいた。 「今日、僕が会う女性が誰なのか、だいたい見当はついている。だけど、君が、その彼女なのかどうか、わからないよ。なにしろ、ここは暗すぎる」 「貴方と約束したのは、私です」  それは違う、とG・Aは思った。  ほとんど見えなかったものの、声からも、そして最初の一瞬のシルエットからも、隣に座っている女性はかなり若い印象だった。真賀田四季ではない。やはり、代わりの人間が来たのだろう。 「こんなふうに会うとは、想像もしていなかった。えっと、どうすれば良いかな?」 「私のことを信じていらっしゃらないみたい」彼女は可笑しそうに話した。「私が本人に会う、というのは、つまり、スカウト。私と一緒に仕事をする気があるか、それを確認するために来ました。駆け引きをしている時間はないわ。私は、真賀田四季です。プロフェサ、名乗られる必要はありません。貴方が、囮になって私を誘《おび》き出したこともわかっています。それでも、貴方の頭脳には魅力がある。私と一緒に来ますか?」  G・Aは考えた。  三秒間の沈黙。  四季は突然、小声で歌を口ずさむ。  高く優しい声だった。  どこかの民話だろうか。  それはラテン語で、「私のことが好きならば手を握って」という歌詞だった。  無線で声が聞かれていることを彼女は知っているのだ。チームの中にラテン語がわかる人物が自分の他にいたかどうか、とG・Aは必死で考えた。 「とても楽しいわ」彼女は言う。「こういうところが大好きなの」  彼女の手を……、  そうだ……、握るべきだろう。  二秒の沈黙。  G・Aは、右手を彼女の方へ移動させた。  トンネルを抜けて、少し明るくなる。  四季の横顔が見えた。  彼のすぐ目の前に、それがある奇跡。  青白い光を受けて、それは作りもののように輝いていた。  静かに瞬き、  瞳がこちらへ向く。  彼を捉えていた。  ぞっとするような美しさ。  彼の躰は震え、全身に緊張が走った。  四季は無言のまま、ゆっくりと首を傾げる。  G・Aは彼女の手を、握ろうとした。  また、暗くなる。  既に周囲のアトラクションなど目に入らなかった。  音楽も、アナウンスも、聞こえない。  彼女の口から出るものだけを、じっと待った。  四季は躰を寄せ、顔を彼に近づけて、囁《ささや》いた。 「いかが?」  G・Aは、彼女の手を握ろうとしている手を引っ込めた。  躊躇か、それとも恐怖か?  しかし、それが彼の最終的な判断だった。 「僕はずっと貴女のファンだった」彼は精一杯落ち着いた声を作って話す。「貴女の論文を聖書のように読み返した。洗練された文章に陶酔した。まさか、こうして、本当にお会いすることができるなんて……」呼吸が震え、言葉が霞んだ。「望外の喜びです。本当にありがとうございます。とても信じられない幸せです」 「期待をしています、プロフェサ」四季は優しい口調で言った。「人間の力を、ともに信じましょう」      6  ドクタ・スワニィを誘ったのは、ゴンドラに乗っていたときだった。  四季と彼の他には、船頭しかいない。  心地良い僅かな風に運河の香りが染《し》みついていた。  夕暮れ。空は紫色。  橋の下を潜《くぐ》り抜けるとき、真っ暗な橋脚の僅かな隙間に黄緑色の猫の目が瞬いた。 「僕はネオンが好きだ」彼は四季の手を取って話した。「特に、ブルーのネオンなんか、街で出会ったら、つい立ち止まってしまう。そう、十秒間は見つめているよ。右目で見て、それから左目で見て、両方ともにしっかりとその輝きを焼き付けておくんだ。そして、家に帰ってから鏡を見るんだよ。こう、顔を近づけて」彼は四季に顔を近づけた。 「目の中に、青い光が残っていないかって、探してみる。どう? 残っている?」 「いいえ」四季は首をふった。「その方法を何度かお試しになったの?」 「うん、まあね。でも、どうもうまくいかない。特に、鏡以外では」  彼女は黙って微笑んだ。 「君は、どうやって、その綺麗な光を、そこに閉じ込めたの?」スワニィはきいた。 「そう、おっしゃると思いました」四季は小さく頷く。 「いつ?」 「両方の目にしっかりと……、とお話しになられたあたりで」 「うん、あまり、その、さきのことを読んでは、人生がつまらないと思うよ」スワニィは口を捩《ね》じ曲《ま》げ、彼女から少し離れた。「難しいものだ、天才とゴンドラに乗り合わせるということは。ここはスペースシャトルか?」 「私のために、ベネチアまでいらっしゃった?」 「もちろん」 「ご自分の今のポストをお捨てになる気はありますか?」 「え?」  クッションにもたれかかってワイングラスを片手に持っていた彼は、そこで動きを止め、これまでにない冷静な視線で彼女を捉えた。 「それは、どういう意味かね? まさか、プロポーズじゃないだろう?」 「それに近いものです」四季はそう答え、自分のグラスを手に取った。 「おや、珍しい。君、アルコールを飲むのかい?」 「一口だけ」彼女はグラスに口をつける。「大事なお話ですから、おつき合いしましょう」 「待ってくれ。どういう意味なのかわからない。何が大事なのかも、理解できないよ」 「私が説明をしたら、もう、ドクタ、貴方はノーとは言えません」 「そのまえに、質問くらいは良いだろう?」 「どうぞ」 「私が失うものは、何か?」 「今の生活」 「どこかへ行けということだね?」 「私のもとへ」 「君のもとへ?」 「はい」 「それは文字どおりの意味か?」 「近距離です」 「何をするために?」  四季は微笑んだまま、スワニィを見つめた。 「いつまで?」彼はきいた。 「ずっと」彼女は答える。 「いつからだね?」 「今から」 「今から?」スワニィは吹き出した。  ゴンドラがコーナを曲がっていく。大勢を乗せた大型とすれ違った。口笛が鳴り、笑い声が通り過ぎる。水面に映るレストランの看板が歪《ゆが》み、そしてちりぢりになって広がった。  幾つかのシーンが、四季の中で展開し、高速に切り替わった。其志雄が描いた絵に、草原に浮かぶ黒いボートがあった。  ナイフを持った男の子と、倒れている女。  血が流れ、水に混じり、運河を下り、海へ届く。 「君は、いったい何がしたいのかね?」スワニィが押し殺した口調できいた。 「私は、ただ、私の生を見たいだけ」 「生を見るとは、どういうことだ? 自分の人生ならば、誰でも見られると思うが」 「貴方が覗かれる顕微鏡の中に、貴方の生がありますか?」 「人間の神秘はあるよ」 「貴方の神秘は?」  スワニィは目を細め、難しい表情で止まった。一度首の角度を変え、今度は横目で空を見上げた。長い溜息をつき、再び四季を見据える。 「わかった」彼は言った。「君の神秘が、見られるのならば、すべてを捨てよう」 「ありがとう」四季は微笑む。「では、お約束しましょう。貴方は、貴方の生を、見ることになります」 「今日から、私は行方不明かな?」 「そう」 「そもそも、ここへ来ることを誰にも言ってこなかった」彼は笑った。「もしかしたら、こうなることを無意識に予感していたんだね。ちょっと違う妄想はしたんだが」 「優れた予感とは、あとから予感だったと気づくものです」 「ずっと、だと言ったね。永遠に、君と一緒なのか?」 「二人だけではありませんよ」 「もちろん、そんなことは考えていない。私の技術が必要なのだろう?」 「必要なのは、貴方の頭脳です」 「死んだら、地上へ戻してくれるのかね?」 「どこへでも、お望みのところへ」 「いや、そんなことはどうだって良い。墓になど入りたくもない。屍はどこかの道端にでも捨ててもらってかまわない。だいたい、生まれたとき、人は皆、捨てられたようなものだ。天から落ちてきたんだからね」 「すべては捧げられたもの?」 「君に、すべてを捧げよう」スワニィは再びグラスを片手に取った。「すべてを、その青い瞳に」      7 「麻酔を使え」R・Rの指示が右の耳に響いた。歯切れの良い冷静な口調だった。あらかじめ用意した録音だったかもしれない。「建物は完全に包囲した。今、一般客を排除している。大丈夫だ。抜け道はない。まだ君の姿が見えないが、心配するな。もう少しで終点だ。止めることは危険なので、このままいく。成功を祈る。確実を期すために、麻酔を使うんだ」  その言葉を聞きながら、G・Aは、四季の手を握った。  彼女は、彼の手に文字を書いた。  一文字ずつ、アルファベットを。そのスペルを、彼は頭の中で展開した。すぐにそれがネット・アドレスだとわかった。今の彼女のものではなく、別のアドレスだ。 「また、メールを下さい」四季は言った。 「もちろん、喜んで」彼は答える。 「貴方が昨年発表されたCNAAのレポート、五ページ目の図の中に書かれていた式」 「はい」彼はそれを頭に思い浮かべた。 「二十年まえの、フォアマンの実験式の微分になっているのに、お気づき?」 「え?」彼は一瞬|仰《の》け反《ぞ》った。背中がシートにぶつかる。  四季の片手が、G・Aの頬に伸びる。  沈黙。  恐竜の立体映像が二人の前に立ちはだかっていたが、まったく気にならなかった。轟音《ごうおん》のようなその鳴き声も、無関係だった。  静かな草原に座っている自分を一瞬感じた。  手を……、握る。  自分の手を握った。  何が正で、  何が誤か。  一つ前のカプセルが暗闇の中、僅かに見える。  もうすぐ、終着。  もとの場所へ戻るはずだ。  そこに、チームが待ち伏せている。  大勢が、この天才を掴まえようとしているのだ。  麻酔を使えだって?  その武器は、彼の右手の袖口に仕込まれていた。  とても小さな、ペンに似た形状のものだった。  彼女の手首を掴むだけで、それを作動させることができる。  何度も練習をした。失敗はない。  しかし、そんな必要がどうしてある?  この美しい女性が、どんな脅威《きょうい》だというのだ?  もちろん、かつて何人かの人間の命を奪っている彼女の履歴は知っていた。そんな殺人鬼と二人だけで、ここにいる自分、その危険の大きさも充分に認識している。  だが、  それは違う、  何かの間違いだ、と感じられた。  それは、もう本能的な判断としか言いようがない。  実験結果のプロットから、数式を連想することよりも、ずっと確かで、ギャップのない予測に思えた。  間違いない。  正しい。  彼女は正しい。  だから、彼は命令に従わなかった。  動かなかった。  最初に彼女の手を握らなかったのは、自分の偽りを示すためだった。おそらく、伝わっただろう。口では、憧れていたと熱心に話し、一方では、彼女が示したサインを受け入れなかった。R・Rたちには見られたくなかったコミュニケーション。  逃げるように、というメッセージのつもりだったのだが。 「麻酔をお使いにならないの?」四季は顔を近づけ、小声で言った。 「え?」思わず、G・Aは声をもらす。 「気づかれた。処理を実行しろ!」R・Rの叫び声が聞こえた。 「お試しになったら?」四季は優しく囁く。「私が、本ものの人間かどうか」 「本ものの……」G・Aは口を開ける。「人間?」  そうか……。  もしかして、これが、そうなのか……。  凄い。  文献では知っていた。  その機能も、写真も、すべて覚えていた。  周りには、信じる者は少なかったが、彼はその技術を確信した。物理的に可能だと直感したからだ。  特別な人間が、  つまり、  人間の思考の細部を、厳密な意味で解析できる優れた頭脳さえあれば、  可能なのだと……。  人を再現するためには、人を超えた頭脳が必要なのだ。 「なんだ? どうした? 大丈夫か?」R・Rがきく。「もうすぐだ、もう二十秒ちょっとだ」  前方に小さくゴールが見えてきた。  G・Aは、袖口の麻酔を押し出した。 「どうぞ」四季は片手を差し出したまま言った。  辺りは明るくなり、彼女の白い肌が今までになく精確に見えた。それでも、青い瞳はまだ光を宿している。思えばそれは、確かに不思議な発光だった。  彼女の手を見る。  自分が掴んでいる、その白い手。  G・Aは指を広げ、その手を解放した。 「駄目だ」彼は首をふった。 「どうした?」 「駄目だ、効かない」  四季はじっと彼を見たまま動かない。  微笑んでいる。  今にもその唇の間から白い歯が見えそうな、そんな間際の微笑みを保ち、止まってしまった。もう瞳も動かない。  前方で短い悲鳴が上がった。  プラットホームから大勢が一斉に雪崩《なだ》れ込んできたのだ。いずれも体格の良い男たちだった。悲鳴は、前のカプセルに乗っていた一般客だったようだ。彼らはカプセルから下ろされた。何か文句を言っていたが聞き取れない。たちまち、G・Aが乗っていたカプセルが男たちに取り囲まれる。トンネル内の通路は狭く、まだカプセルはゆっくりと動いていた。 「真賀田博士、どうかご無礼をお許し下さい」前に進み出て、覗き込んだのはR・Rだった。「ご冷静にお願いします。私たちは、貴女に危害を加えたくありません」  四季は、R・Rの方を見なかった。  まだ、さきほどの姿勢のまま、  G・Aをじっと見据えた姿勢のまま動かない。 「麻酔を打ったのか?」R・Rがきいた。  G・Aは無言で頷く。彼女の視線を受け止めたままだった。とても目が離せない。  R・Rは片手を彼女の前に出す。それを振ってみせた。  次に、彼女の肩にそっと触れる。 「ご気分が悪いのですか?」R・Rはきいた。  カプセルは進んでいる。前のカプセルは既にプラットホームに到着していた。トンネルの中へ入ってきた男たちは二十名以上いる。お互いに接触するほど混み合っていた。  ここで、音楽やアナウンスが止まり、カプセルも停止した。 「これは、人間じゃない」G・Aは言う。  彼のその声が、トンネルの中に響き渡った。  照明が灯る。  周辺は明るくなった。  プラットホームまであと三メートルほどの位置だった。そこから見える範囲には、もう一般客の姿はない。何かの緊急事態を理由に排除したのだろう。 「何だって?」R・Rが、ひきつった表情できいた。「人間じゃない?」 「ロボットだ」G・Aは答える。「暗くて、わからなかった」 「え? しかし……」 「真賀田四季は、こんなに若くない」 「誰なんだ?」 「いや、だから……、彼女が若いときの姿だろう。それをモデルにして作られたんだ」  今、明るい照明の下で見ても、それはほとんど人間だった。唯一の違いは、動かないこと。髪も、皮膚も、そして開かれたままの目も、唇の艶《つや》も、何もかも本ものに見えた。  R・Rが慎重に手を伸ばし、彼女の手に、それから顔に触れた。舌を鳴らし、何か言葉を吐き捨てたが、聞き取れなかった。 「どこか、近くにいる」G・Aは言った。「コントロールされていたんだ。すぐ捜索を」 「建物の中か?」顔を上げ、R・Rがきいた。 「おそらく」 「よし、この通路を奥へ。おい! そっちは下へ行って、出入りの確認を」R・Rが立ち上がって指示した。  G・Aは再び、シートに座っている彼女の顔を見据える。青い瞳が、平行に二本、白い照明の光を映していた。 [#改ページ] 第3章 赤い部屋 [#ここから5字下げ] そのとき親方が職人たちと一緒に働いて、棺桶をさっさと上手《じょうず》に拵《こさ》えあげる。出来上ったところで、その板張の家をずんずんこっちへ担《かつ》いできて、辛抱のよい者をあとまわしに、辛抱の悪い奴から入れてしまう。それへはやがて重い屋根が乗っかるのだ。 [#ここで字下げ終わり]      1  地下室へ降りていく階段は、揺らめく炎によって艶《なまめ》かしく照らし出されていた。濡れているようだったが、それに触れることは誰もしなかった。下りたその先は真《ま》っ直《す》ぐの廊下。天井は比較的高く、そして丸く、トンネルかあるいは大規模な地下水路を連想させた。蝙蝠《こうもり》が飛んでいそうな雰囲気だ。こうして光のないところに身を置くと、暗闇はとても一つの物質には思えない。数々の黒いものがぎっしりと集積して、光を押しのけ、明るさを寄せつけない高い剛性が感じられる。暗闇という領域を形成しているのは、そんな団結のように思えるのだ。  行き止まりは鉄の扉だった。  前に立つと、それは音もなく開いた。  同時に、黄色い光が、その中から溢れ出る。  敷居を跨《また》いで中へ入った。とても広い部屋の一部が見えた。太いシリンダの柱が幾つも整列し、天井を支えている。奥へ歩いていくと、それらの柱が、少しずつ違った速度で移動し、新しい視界を構成した。奥行きはわからない。どこまでも続いているように見えた。  それらの柱の間に、円形の敷物が見えてきた。そこが中心だろうか。一際《ひときわ》明るかった。周囲に沢山の炎が浮いて見える。  光に誘われて近づいていく。小さな丸いテーブルが、中央に置かれ、背の高い椅子が二脚だけ。その一つに老人が座っている。彼は、こちらを向いて片手を持ち上げた。 「来たね」老人の声が空間に響く。  その声と同時に、生きものたちが動く音が周囲で起こった。 「お招きをいただき、感謝いたします」四季は応えた。「素敵なところですね、ドクタ」 「そうかね……」老人は周囲を見回した。「仰々《ぎょうぎょう》しいだけのように思えるが。豪華絢爛《ごうかけんらん》とはいえないだろう? どうぞ、掛けなさい」 「ご趣味なのですか?」 「わしのことを勘違いしておる」 「失礼いたしました」四季は微笑んだ。「本題に入りましょう。セキュリティが十五分は保証しています」 「資料は読んでくれたかね?」 「はい」 「君の印象は?」 「印象ではなく、犯人である可能性の高い人物は一人に絞り込まれました。ほぼ確実です」 「早いな。どういった方法でそれを?」 「誰か、ということをお尋ねにならないのは、何故でしょうか?」四季はくすっと笑う。「つまり、既にご存じだったのですね?」 「確信はないがね。わしの方は、手詰まりになっている。十数名には絞られた。そのあとは、わしだけの力では無理だ。何らかの政治的な働きかけ、それとも、そう、駆け引きが必要だと感じている。現状を説明すれば、こんなところだ」 「そのまえに、私の意見を聞こうと?」 「そうなんだ、すまないね。つまらないことに引っ張り出したりして。こんなことに、君のような才能が消費されるなんて、国家的損失だよ」 「レトロな言葉ですね」 「では、世界人類的損失かな」 「これまでの被害者のデータに共通するものは何か」四季は話す。「それは、ネット上においてレベルCで閲覧ができるシーケンスだったこと。いずれの個人データも新しかったこと。最近になって、何らかの登録変更をしている人たちでした、殺されているのは」 「そのとおり、その関連は、今回の件に関する統計的有意を示す数少ないファクタとして最初から注目されていた。したがって、レベルCで閲覧が可能な者を調べることが先決である、と誰もが考えた。実際にそれは行われたんだ。虱潰《しらみつぶ》しという言葉を知っているかね? だが、結果は出ていない。レベルCの閲覧者が、いったいに日本に何人いると思うね?」 「法的な権限なしにそれを見る技術手段を有する者を除いても、およそ二千人くらいかと思います」 「しかも、どれも、本人かどうかさえわからない。その権限を不当に、しかも知らないうちに盗まれている場合もあるだろうし、誰かに頼んでやってもらったケースも考えられる。そもそも、複数犯かもしれない」 「いいえ、そんなに複雑に考える必要はないでしょう。実行しているのは明らかに一人、非常に分別のある冷静な犯行を、精確に重ねています。前科のある犯罪者でもありません。データを閲覧していることは、絶対的な秘密でしょうから、共犯がいる可能性はほとんどゼロです。また、データの閲覧が可能だ、というだけではありません。さきほど言いましたように、新しいデータを取り扱った人間なのです。そうでなければ、数あるデータの中から、更新が新しいものだけを選択する理由がありません」 「更新されたばかりのものは、信頼性が高いと踏んだのではないかね?」 「信頼性が必要でしょうか? そうではありません。全体データにアクセスすれば、取り出したという記録が残ってしまう、そういう立場にいるのです。その危険を充分に知っている。つまり、データを取り扱った人間本人。公の機関に所属していることは間違いないでしょう。たまたま、そのデータを最近扱ったのです。彼の前を、それらが通り過ぎたのです。したがって、不正にアクセスしたのでもありません」 「さすがだね。そのとおりだ」老人は嬉しそうに微笑んだ。「その制限と地理的な条件から、十数名に絞られる」 「おそらく、そこまででしょう。現行の調査からは、それ以上の判断は不可能です」 「では、そのさきは、どうした? まさか、インスピレーションではあるまい?」 「簡単ですよ、それくらい」四季はにっこりと微笑む。「警察にはできないことが、私には可能です」 「なるほど……」老人は口を開けた。「君に侵入できないエリアはない、ということか?」 「簡単に言えば、そうです」 「簡単だな」 「私にそれが可能な理由を申し上げるわけにはいきませんが、可能なことは事実です」 「それは、世界中のシステムが、君の頭脳によって設計されていることに起因しているだろう。誰も知らないドアが、存在するのだね?」 「そうまでは言いません。ドアほど通りやすくできてはいませんし」 「まあ、どんなものだって、点検ハッチくらいは必要だ」 「そういうことです。悪用されたくないので、それは、どなたにも教えるわけにはいきません」 「君だけが知っているのか?」 「私以外にも知っている者はいますが、チームが集まらないと意味を成しません」 「わかった」 「レポートは、のちほど専用回線でお届けいたします。ここでは危険です。ただし、法的な証拠にはなりませんので、たとえ犯人が特定できても、即座に逮捕というわけにはいかないでしょう。髪の毛も体液も残していないようですから、鑑定はかなり難しいのでは?」 「うん。だが少なくとも、これ以上の被害を出すことは防げる。それで充分だよ」 「本人に告げれば、かなりの確率で自首するものと想像します」 「そうかな……」 「そういうタイプですね。あるいは、逃亡するか」 「全然反対じゃないか」 「いいえ、いずれも同じベクトルです」  老人は、目を細め、その隙間ともいえるスリットから、四季を睨んだ。 「わかった。これだけだ。どうもありがとう」 「では、失礼いたします」  四季は立ち上がった。  握手をして、彼女はテーブルを離れる。 「ちょっと待ってくれ」  振り返り、再びテーブルに近づいた。  老人はまだ椅子に座ったままだった。両手で頭を抱えるようにして背中を丸めていた。 「何か、おっしゃっていないことがあるのですね?」四季は尋ねた。 「君も、口にしていないことがあるだろう?」 「あります」彼女は答える。「それが定常では? 何もかも、しゃべってしまうなんてことが、あるでしょうか?」 「会ってもらえないかね?」 「今、お会いしています」 「物理的に、直接、君と接触したいのだ」 「どうして?」 「どうしても、直接伝えたいことがある」 「お話ならば、ここでできます」 「危険だ」 「では、もっとセキュリティの高いパスを、こちらで用意しましょうか?」 「わしは古い人間なんだ。ここで見ている君の姿が、本ものだなんて錯覚は、とてもじゃないができない。頼む、余命の少ない年寄りの最後の頼みだと思って、どうかきいてくれないか?」 「私は、現在のドクタがご老人だということも存じません。単に、そう錯覚させられているだけかもしれませんが、特に重要なこととは思えません。貴方は、私が知っているドクタ・久慈《くじ》ご本人だという確証がありますか?」 「いや、君は知っているはずだ。わしが会いたがっている本当のところも、知っているはずだ」 「わかりました。お返事は、また別の機会に」四季は軽く頭を下げた。  椅子に腰掛けている老人は両手を合わせ、拝《おが》むように目を瞑った。      2  G・Aは研究室のシャッタを閉める。  他のスタッフたちを追い払うのに苦労をした。既に二時間になるが、遊園地では、まだ捜索が続いていることだろう。連絡はない。女性型のロボットを大切に研究室まで運んだ。二人のチームメンバが彼に付き添ってきたが、その二人には、明日の朝から検査を始めると話した。今日はとにかく疲れて眠りたい、そう主張したのだ。  夜中のうちに、誰かが訪ねてくるだろう。このままで済むとは思えない。どこかへ移動する方が得策だ。  空気清浄装置のコンプレッサが軽い回転音を立てていた。窓の液晶ブラインドはすべて閉まっている。一度照明を消し、しばらく待った。デスクの小さなライトだけを灯す。喉《のど》が渇いたので、冷蔵庫から炭酸飲料を取り出して口をつけた。  十分。  外の様子を静かに窺った。異状はない。  実験台の上を見る。  シートがかけられていた。  半分残っているボトルをデスクに置き、彼はそちらへ近づく。  柔らかいシートが、躰の形を示している。  手を伸ばし、シートを捲《めく》る。  眠るように目を閉じた彼女が、そこに横たわっていた。  デスクから届く光を、彼の躰が遮り、大きな闇を彼女の躰の上に落としていた。その影のせいで、彼女が動けないのではないか、と思えた。 「素晴らしい」G・Aは呟いた。  再びデスクへ戻り、ボトルを手にして、また彼女の横に立った。  その手に触れる。  そして、額の髪を除け、頬にも。  これが動かなければ、それほど驚くべき技術ではない。この程度の造形は既に一般的といって良いだろう。しかし、いくら暗かったとはいえ、自分のすぐ隣で、これは生きているように振る舞った。カプセルに乗り込んできたときの動きは、しなやかだった。どうしてこんなに軽く造れたのか。  コントロールを失って、機能を停止、スリープしたのだと思われる。首の後ろや、後頭部を探してみたが、残念ながら、外部パネルらしきものは見つからなかった。  彼女が話していたことを、G・Aは思い浮かべる。  自分は、彼女の誘いを受けた。肯定したのだろうか、それとも否定したのだろうか、自分でもよくわからなかった。  おそらく、何らかのアプローチがあるはず。  すぐに、それはやってくるだろう。  それまでに決断しなければならない。  否、既にその決意はついていた。この素晴らしいテクノロジィの結晶を目《ま》の当たりにして、頷かないエンジニアはいないだろう。できれば、R・Rたちが気づかないうちに、ここを立ち去りたかった。  G・Aは空のボトルをまだ片手に持っていた。目の前の彼女の顔をじっと見据えている。そして、その長い睫《まつげ》がゆっくりと動くところを見た。  青い瞳が、その中で輝く。  それが、彼の方へ。  静かに、頭を少しだけ動かした。  なんという洗練された動きだろう。  彼女は微笑む。  G・Aは、何も言えなかった。こうなることを期待していたのに、躰は動かない。息も止まったまま。  これが動きだしたのは、コントロールしている者がどこかこの近くにやってきたことを示している。計算どおり、というわけだ。  何か話さなければ、と彼は考えた。  再び呼吸を取り戻し、口もとをウォーミングアップする。 「どう? 気分は」彼はきいた。 「プロフェサ、お一人?」彼女の口が動き、美しい声がそう言った。「私は、大丈夫です」 「これから、どうすれば良い?」 「どうしたいのかを、おききしなければなりません」 「うん」彼は頷いた。「僕は、君と一緒に行こうと思っている。その決断はした」 「マイクを、お切りになった?」 「ああ、もちろんだよ」G・Aは頷く。  作戦中は、R・Rたちにすべて聞かれていたのだ。それは今はない。スイッチも切ったし、それに、こんな遠距離は電波も届かない。  彼女は躰を起こし、こちらを向いて、足を下ろした。実験台の上に座っている。ごく自然な、人間らしい動きだ。速くもなく、遅くもない。 「そこから降りられる?」G・Aはきいた。  彼女は微笑んだ。そして、腕の力で飛び降りるようにして、床に立った。そのままG・Aのところへ歩み寄り、彼の手からボトルを取り上げる。そしてデスクの方へ近づき、それをゴミ箱の中へ投げ入れた。くるりとこちらを向き、両手を広げ、肩を竦めてみせる。  凄い。  見たこともない動きだった。  G・Aは拍手をしたくなる。 「天才的だ」彼は言う。「君、名前は?」 「道流《みちる》」彼女は答えた。 「ミチル?」 「ダンスを、ご一緒しましょうか?」 「いや、そんな時間はないだろう。すべてを捨てて、ここを出ていく。支度《したく》をするのに十五分待ってくれないか、データを転送して、それから、ここにあるものはすべてデリートする」 「貴方は連れ去られたのですから、そんな暇はなかったでしょう」 「え?」  ミチルは微笑み、片手を真横に挙げて、反対側の片脚を真っ直ぐ斜めに持ち上げた。  ダンスのポーズのつもりだろうか、とG・Aは思った。  彼女は突然跳躍する。  躰を回転させ、彼へ近づいた。  回転は加速し、彼女の脚が、G・Aの側頭部にヒットする。  彼は弾《はじ》き飛ばされ、一瞬にして意識を失った。      3  四季は一人でボートに乗っている。太陽は水平線に隠れ、海の色は紫。白かった波もしだいに黒ずみ、鳥のシルエットも曖昧になった。波はほとんどない。この近辺は浅瀬が続く内海。流木が動かない。  星が数個、瞬くこともなく小さく光る。  雲もなく、月もない。  こんな条件の夕暮れには、海が空の沈殿物のように見える。嵐の日にはそれが攪拌《かくはん》され、淀んでいたのに、こうして自然に凝集し、重いものが下へ沈む。海は空よりも重い。  もう少し浅瀬へ行って、ボートから降り、足を濡らしたかった。  砂の上を歩いてみたかった。  しかし、近くにはそんな場所はない。それに、たちまち真っ暗になってしまうだろう。  海の底は暗くて見えない。そこには鉄道の線路が沢山平行に走り、貨物車が幾つも並んでいるかもしれない。かつてここは大きな駅だったのだ。それがそっくり海に沈んでしまった。  その発想がどこから来たものか、四季は確かめる。  突然浮かび上がる連想、その飛躍を一陣の風のように楽しむには、こんな静けさが適している。  近衛兵や軍隊の行進がこの浅瀬で行われたら、水が跳ね上がるだろう。山村の炭焼きの窯の近く、断層に現れる海の生物の化石。下に膨らんだ回転体のグラスに透過・反射する四角い窓の映像をトレース。細胞のフラクタルと、リレィベースユニットの二重継承。四次元螺旋の投影による疑似構造の相転移。電磁誘起のまだ見つかっていない最後の関連要因。闇の中をスパイラル飛行する蝙蝠《こうもり》が見る超音波映像。長鎖分子アクチュエータのフラッタ問題。色素増感センサの高次安定化。DNAチップの光隔離。ニューロンエレクトロニクスの終末。カーボンナノコイルサスペンションによる人工微生物。知能創生とその器となるポーラスカーボンストラクチャの応用。メゾコンプレックス金属。遺伝子スイッチの寿命判断アルゴリズム。プレカーサ被膜の処理とその識別。超誘電メモリィの普及。バイオセラミクスの復活。炭酸固着からの撤退。増核プロセッシングの展望。コイーレント電子加工の実践。  数々のシミュレーションが通り、課題と問題点の対照が走る。  人の顔の表曲面を式化し、パラメータ変動による表情表現。その僅かな値の差で、嬉しくなったり、悲しくなったり、怒ったり、笑ったり、人の活動範囲の小ささと、さらに極小な精神空間の揺らぎを伴って、相互影響も生じず、大半は流れ、そして消えていく。川の水が海へ流れ込むように、人の想いもまた、流れ、混ざり、集まり、広がって、やがて静かに沈んでいく。  木の葉が枝を離れ、空気の中を重力に引かれて移動する。左右に揺れながら、落ちていく。その様を頭に思い描いた。何度もこれを繰り返した。  次に、揺らめく旗、その次には、炎の運動を見た。それらを計算し、思い描いた。  薄れゆく記憶はアナログの時代のもので、人類は既に劣化しないメモリィを使いこなしている。昔の記憶も、たった今のことも、同じく鮮明であるとき、古いとは何か? それは、データの不備、分解能の不足といった、発展に伴う相対的な機能低下以外にはない。四季の記憶もまた、これと同じだった。古い記憶は、その時点では生まれていなかった彼女の評価視点によるデータが不足している。その角度からの映像がなかった。  ときどき、それらを呼び起こし、再生しつつ、それらのデータを推定によって補おうとした。子供の頃の記憶は、これが可能だった。けれど不思議なことに、十代から二十代の頃のものは、その補完が難しいことが判明した。  何故か?  まず第一に、その当時の彼女の行動は、極めて先鋭的、極端で実験的だった。自分の限界を知るために、ぎりぎりのことを試している。第二に、他者に対する一部の感情は、精神処理だけでは説明できないベクトルを含んでいた。不条理なことだが、肉体の影響を受けていることを認めざるをえない。特に、こうしたコントロールに不慣れだったというべきだろう。第三に、最も多くの他者に遭遇し、数々の頭脳構造を観測したのがこの期間だった。こうした新しいデータによる刺激は、観測中においても影響を与えた。観察し、データを取り入れる途中で、そのデータの評価基準が変化しているのだ。  このような問題を、人は一般にどう解決しているのか、という発想を、四季の場合はできない。同様の問題に直面しているのが、おおむね自分一人であることを、彼女は知っていたからだ。あらゆる問題が、そうだった。彼女だけがそれを問題にしている。誰にも相談することはおろか、理解さえしてもらえないだろう。  ボートをゆっくりと漕《こ》ぐ。  固体摩擦と弾性変形による軋み、液体の衝突と反発を伝播させる気体の振動、あとは何も聞こえない。 「暗くなるまえに戻った方がいい」其志雄が言った。  四季は答えなかった。 「どうしたの? 寂しそうだね」 「寂しい?」四季は言葉を繰り返した。「寂しいって?」 「なんか、そんな感じかな、という外見的な傾向を端的に評価したつもりだけれど」 「わからない。それよりは、つまらない、の方が近いと思うけれど」 「つまらないなんて言いだしたら、何もかも全部つまらない。最初からずっとつまらないよ」 「そうでもない。面白いものもあった。沢山あったわ」 「今はそれがない?」 「たまたま今だけないのか、これからずっとないのか。私の周囲、外側の問題なのか、それとも私自身の、内側の問題なのか、まだ判別がつかないの」 「そもそも、その両者は別のものなのかい?」 「外側と内側が?」 「そう」 「さあ、どうかしら。確かに、それを明確に区別する一線は存在しない。私の外側にも、私は進出している」 「内側にあっても、君がコントロールできない領域もある。それくらい、僕は知っているよ」 「では、内側という概念を再構築しましょう。私がコントロールできる範囲を、私の内部と定義します」 「それならば、内部には問題は起こらない。すべてコントロールできるはずだからね」 「そう、だから、問題は常に外側にある」 「内側に取り入れたいために、問題を解決しているんだね?」 「いえ、でも、内側に取り込んだものの中から問題が生じることもあるわ。しかもその多くは、内側に存在するが故に問題となるもの。もしそれが外側にあれば、いつまでも問題にはならない。問題にならないから内側だとすれば、そのとたんに問題になる」 「なるほど。フラッタだ。構造不安定というわけか」 「それは、どうでも良いこと。放置しておいても、問題は大きくはならない。矛盾のまま抱え込むことで解決できる。つまり、内側でも外側でもない領域にセットすれば良いだけ。だけど、解決してしまうと、もう問題ではなくなるから、やはり内側の一部かしら?」 「一つには、情報吸収という観点から、君がある程度の飽和に達したと見るべきかもしれないね」 「そうね、それは少し感じます。もう情報が欲しいとは、それほど思わなくなった。でも、情報を嫌がっているわけではありません。それを格納するスペースにもまだ余裕はあるから、飽和というには、少し抵抗を感じるわ」 「では、達成といえば?」 「私が、何を達成した?」 「僕にきかないでほしいね」 「確かに、幾つかのものを達成したかもしれない。でも、それはずっと以前に達成することが予測できたものばかり」四季は言った。「私は、今のところ、私が予測した以外のことを何もしていない」 「ああ、わかった。君はつまり、突然変異みたいなランダムがお望みなんだ。でも、それは贅沢《ぜいたく》というものだよ」 「いえ、それも違う。外部からのそういった影響要因は、結局は内部の何かに変化を与えるのであって、その変化が、予測できないなんてことは、まずありえないわ。ああ、けれど、もうやめましょう、このお話は。先が見えている」 「君は、何でも先が見えてしまうんだ」 「ええ、だいたいは」 「それが、つまらない原因なのでは?」 「その意見を貴方が口にするのは、これが三度目だけれど、納得がいかないわ。遠くが見える、視界が広い、どこまでも見通すことができる、その状況が、どうして不自由さを生むの? 説明できる?」 「ところでさ、つまらないことは、不自由なの?」 「欲望を抑制されている状態に等しいのだから、結果的に不自由になるでしょう?」 「それじゃあ、説明してあげよう。いいかい、先が見えない、遠すぎて見えない、だから人はそこまで歩いていこうとするんだ。近づいて、それが見えてくることで、自分が歩いてきた道のりを振り返る。そして、その努力に対して満足する。自分の苦労を褒《ほ》めてやりたいんだよ。この満足が、よく人生の生き甲斐だなんて表現されているものだね」 「歩いていかなくても見えるようになれば、同じことじゃない? そちらの方が合理的だわ」 「普通の人にはそれができない。だから、とにかくまず近づこうとするんだよ」 「近づいている間は、何も見ていないのね?」 「ああ、そう、そうだよ。見ることを忘れている」 「私にも見えないものはあります。でも、それは、そちらへ行けば見える、という種類のものではないわ。どこへ行けば見えるようになるかわからないから、見えないのよ。つまり、この空間には存在しないもの、だからこそ見えない。そうでしょう? そちらへ近づけば見える、なんていう程度のものは、どのみち大したものではないわ。見たってしかたがないものです」 「そういう価値観を君は築いた、ということだよ」 「だから?」 「だから、その場合は、その築き上げたそんな見通しの良い世界のことを、つまらないと自分で名付けたわけだから、これはもう、なんともしかたがないことじゃないかな」 「私はつまらない、なんて言っていません。それは貴方が持ち出した概念です」 「わかったわかった。こういった議論は、どこへも行き着かないけれど、議論をしている最中だけは、うん、ほら、わりと面白かったりしない?」 「しない」 「そう」其志雄は苦笑いした。「それならば、やっぱりしかたがないね」 「しかたがないのは、貴方」四季は目を細めて微笑んだ。「他者との議論の最中に何かを掴もうとするなんて、まるでナイフで木像を彫るようなものね、芸術家になれば良いわ」 「それは、もしかして喧嘩《けんか》をふっかけているのかな?」其志雄は笑った。「やっぱり、君の忠告どおり、やめておくべきだったなあ」 「そう」四季は頷いた。「貴方がそう言うことまで、私は予測していた。うん、やっぱり駄目ね、たまには、まったく別の人格と接しないと。ネットワークが閉じてしまう」 「君の中に入ってしまった人格が多すぎるんだよ。あ、だけど、君があんなに関心を持っていたのに、何故か内側に取り込まれなかった人格もいたね」 「その話も面白くありません」 「どうしてなのか、その理由だけでも教えてもらいたいものだけれど」 「何だろう……。その処理は回避しているの。やはり、危険があるからだと思うわ」 「人格を取り入れることが危険だ、という意味?」 「そう。その人の精神ストラクチャをトレースすることは可能であっても、それを実際にしてしまうと、影響が内側に広がって、かなりの範囲にダメージを受ける可能性が高い」 「犀川創平がそうだった?」 「ええ」四季は頷いた。一度目を閉じ、それから息を吸った。再び目を開いたときには、違う方角を見ていた。 「そこに、キーがある」其志雄は言った。 「キー?」四季は首を傾げる。「でも、もう遅いわ」 「遅くないさ。君は、いつだって、どこにいたって、それができるだろう?」  四季はボートから顔を出して、水面を見つめた。暗い水の中で、貨車の入れ替え作業が始まっていた。      4 「現在の構築知性の最大の問題点とは何でしょうか?」インタヴュアが尋ねた。 「既に、お話をしていることの繰り返しになりますが……」四季の口調は一定の速度で、まるで録音されたもののようだったが、事実そのとおり、彼女の頭の中では完成された原稿の要約に過ぎなかった。「それは人間の教育と同じです。我々は、長い間、子供は大人よりも劣っていると考えていました。子供には、抽象的な概念を把握する能力がまだ備わっていない。したがって、簡単で具体的なものを持ち出して、子供の教育に当たってきました。しかし、それは完全に子供を見くびった視点だったのです。生まれて、この世界の身近なものの存在、自分の存在、そして、それらの相互関係、さらには、それらを表現する言葉の存在、思考による予測を伝える手法など、子供は最初から、人生最大の難題を解決しなければなりません。これをなんなくクリアしてしまう能力を想像してみて下さい。人間は最初に最も理解力を持ち、知識を蓄え、それらの応用と試行を繰り返すことによって、しだいに制限され、思考力を失うのです。簡単にいえば、最初は誰もが天才、そして、だんだん凡人になる。これとまったく同じことが、人工の構築知性にもいえます。人間も機械も、両者のアーキテクチャはほとんど同じものです。何故なら、人のニューラルネットを真似て、それはデザインされ作られているのですから。したがって、構築知性も最初ほど能力が高く、理解力がある、という観点からプログラムするべきなのです。これまで行われていた手法は、すべてこの逆でした。最大の問題は、その理由のない幻想にあったのです。教育をすればするほど賢くなるという錯覚を、まず捨て去るべきでしょう」 「言葉では理解できるのですが、多少、やはり一般的な印象としては異なる部分があるように思えます。たとえば、仕事をさせたり、世間話の相手をさせるにしても、最初は使いものになりませんが、しだいにいろいろなことを覚え、だんだんと、物事がこなせるようになるのではありませんか? 博士がおっしゃるように、教育するほど頭が悪くなるというようなことは、普通はあまり見受けられない現象だと思えるのですが」 「頭が悪くなるからこそ、仕事ができる、頭が悪くなったから、世間話ができるのです。賢かったら、仕事なんかしないし、おしゃべりなんかしませんよ。もっと自分にとって有意義なことを見つけて、それを楽しむでしょう、子供をごらんなさい。そうしていますよ」 「はぁ、なるほど……」インタヴュアは苦笑しながら頷いた。「そういう意味でなら、私も、その、仕事ができるように、もっと頭が悪くなりたいものですね」 「どういうわけか、多くの人間はそれを望んでいます。可能性を少なくすることは、自分の選択肢を絞る行為に等しく、つまりは、それが問題の解決だということもできます。決断し、実行すること自体が、多くの可能性を捨て去ることだからです。人は、身軽になりたいと望んでいるのでしょう、本能的に」 「今おっしゃられた逆説的な方法は、何故、これまでの構築知性には活かせないのでしょうか? そういう意味ですよね? 博士が提唱されている構築知性は、どこが違うのでしょうか? つまり、完全にソフトだけの問題ではないのですね? 申し訳ありません。一般人の私にも、なんとかわかるようにご説明願えませんか」 「ほとんどはソフト的な問題です。統合されない知覚を有すること、すなわち、人格を一つにはしない、同時に別のことを考え、無意識に違う方向の思考を行う。これが非常に重要なことなのです。最初の頃の構築知性では、そういったマルチ・シンクのアルゴリズムは、単なるバックグラウンド処理としてしか、認識されていませんでした。ずっと、シングル・エバリュエーションの時代が続いて、統一的な価値観を持たせよう、答を一つに絞らせよう、と教えてきました。それに適したアーキテクチャばかりが作られたのです。最初から限られた仕事をする知性ならば、その手法の方が早く育つメリットはあります。でも、それ以上のものにはなりえません。人間だって、生まれたときには、何になるのか、わからないでしょう? それと同じプロセスを構築知性にも与えるだけのことです。もちろん、多少のハード的なバックアップが必要ですけれど、ソフトさえ明確ならば、それに合わせたデザインは難しくはありません」 「最後に、もう一つお尋ねします。この分野の発展は、いったいどこへ行き着くとお考えでしょうか? 人間は、最後には、人間を作るのでしょうか? それはどんな意味がありますか? その技術から、あるいは、その技術開発の過程から、我々は、何を得ることができるでしょうか?」 「そのご質問に対する答は、ありません」四季は首をふった。「人間はそもそも、どこへ行くのか、何のために存在しているのか。そして、何を得るでしょうか? それと同じで、わからない、というのが答ではないでしょうか。ただ、概念的には、構築知性のゴールは明確です。最後は人間になる。私たちとの区別はなくなります。機械が人間になるのです。それだけのことです。しかし、人間は、これまでにない新しいパートナを得るわけではありません。創り出されたそれは、人間と同じものであって、人間以上のものではありません。計算が速く、物覚えが良い、劣化も少ない、ミスも少ない、しかし、それはいずれも、機械を使って人間が既になしえる範囲のものです。発想の力は同じなのです。つまりは、何も変わりありません。もし、私たちが、構築知性の研究の過程で得るものがあるとすれば、それは、私たち自身を見つめること、鏡を見ることに等しいでしょう。鏡を見たくありませんか? 鏡を見ない人間がいますか? 何のために私たちは鏡を見るのでしょうか? 見たいものは何でしょう? 意味がありますか? それが、この分野の研究のゴールです」      5  久慈|昌山《まきやま》は、着水の軽い衝撃で目を覚ました。飛行艇が巻き上げる飛沫《しぶき》がサイドウインドウの視野を白く遮っていた。エンジン音は低くなり、それに反比例して振動の周期は長くなる。  彼は緊張を顔に出さないように気をつけた。しかし、サングラスと空調マスクをしていたので、表情を見られる心配は少ない。長身のスチュワーデスが近づいてきて、彼の前でにっこりと笑った。 「久慈様、そろそろ到着でございますので、ご用意をお願いいたします」  言われなくてもわかっている。それに用意など何もなかった。降りるために必要なことは、シートベルトを外すだけだ。まだそのサインは出ていない。キャビンには、他に客はいなかった。今どき、こんな僻地《へきち》へ旅行する者などいないということだろう。かつては世界中に観光地があったのに、今では、それはそこに存在するだけで、ほとんど機能していない。観光という行為が下等なものだという認識が急速に広がったためだった。環境やエネルギィのためには好ましい傾向ではあるけれど、誰が扇動したものなのか。だが、彼には興味がなかった。  やがて、飛行艇は停止した。水面の上で僅かに揺れている。彼のシートベルトはスチュワーデスが外してくれた。彼女が手を引き、彼をドアの前まで連れていく。よほどの年寄りだと思われたようだ。空気音とともにドアが開き、階段が桟橋《さんばし》へ向かって届いていた。その急角度を、彼は慎重に降りた。  桟橋では、若い女性が一人待っていた。形容しがたい色彩の髪はストレート、白のブラウス、短い黒のスカート、それにブーツ。クラシカルなファッションだ。 「お待ちしておりました、ドクタ・クジ」彼女は綺麗な発音で挨拶し、頭を下げた。「お荷物をお持ちいたしましょう」 「荷物はこれだけだ」彼は片手に持っていたバッグを少しだけ持ち上げる。「大丈夫、自分で持てる」 「では、どうぞこちらへ」彼女は背中を向け、歩き始めた。  飛行艇は低速でバックし、向きを変えていた。彼は、女の後を歩く。ときどき彼女は振り返り、立ち止まって彼を待ってくれた。 「真賀田博士のお弟子さんかね?」 「いいえ、私は単なるアシスタントです」 「博士は、こちらで、もうどれくらいになるのかな?」 「お答えできません」 「君は、ここに、どれくらいいる?」 「ここ、というのは、この島という意味ですか?」 「そうだ」 「約五年半ほどになります」 「ありがとう」彼は微笑んだ。歩いているうちに、少し息が切れたので、話を中断した。 「やはり、お荷物をお持ちしましょう」彼女は手を差し出す。  持っていたバッグを彼女に手渡した。 「大切に」彼は言う。「大事なものが入っている」 「承知いたしました」もう一方の手をバッグの下に当て、彼女は頷いた。 「名前は何というのかね?」 「私ですか?」 「他に誰かいるかね?」 「ドクタ・クジが、私の名前を必要とされる事態は非常に少ないと予測されますが、もし必要でしたら、パティと呼んでいただけばけっこうです」 「パティ」彼には珍しいシチュエーションだったので、多少照れくさかった。「失礼を承知で尋ねるが……」 「はい、何でしょうか?」 「君は、人間かね?」 「いいえ」彼女は即答した。「私はウォーカロンです」      6  四季は砂浜を歩いていた。  幾つかの砂浜が重なった。  新藤清二と一緒だった砂浜、犀川創平と歩いた砂浜、彼女が一人だけ立っている砂浜、そして、もう誰もいなくなった砂浜。  サンダルが砂を圧密する僅かな音を聞いた。  エンジン音が遠くから届く。来訪者を乗せてきたのだろう。  約束の時刻だった。  久慈昌山は、何十年もまえからの友人である。  四季は、彼に掛け替えのないものを託した。それは、生きたまま保存されていた細胞。そこから、人間を再生することを、彼に依頼した。当時、それは最先端のテクノロジィであり、それを扱うことが可能な人間は、世界に三人しかいなかった。その三人の中で、久慈が最も若く、最も斬新《ざんしん》で、そして最も大きな野望を持っていた。  それでも、最後まで譲らなかった条件、彼が主張した条件が一つだけあった。それは、細胞から育った個人に、四季が会わない、つまり関わらない、という拘束だった。  彼女はその条件を飲んだ。以来、久慈に直接会ったことは一度もない。彼に会うことは、大いなる欲望の歯止めを外すことのように思えたからだ。原始的な方法だと自己分析したけれど、時の流れが解決する、といった楽観的な予測もまた、子供がどこかで拾ってきた綺麗な小石に潜む魔法と同様に、彼女の中で閉じた感情の片鱗に過ぎなかった。  少なくとも信頼に足る人物だったので、全面的に彼を信じた。結果がどうなったのかさえ、きかなかった。結果が問題ではない。自分のすべきことは既に完結し、自分の選択の機会も、既にないのだから。  したがって、彼が今頃になって直接会いたいと言ってきたことに、四季は多少驚いた。  彼の曾孫が殺された事件のことで、先日は久しぶりに彼と話をした。しかし、今回の話題は、その事件の関連ではないだろう。その程度のことで直接会いにくる必要があるとは思えない。自分の身内のことを話したがる男ではない。死期を悟っての最後の記念、といった俗物的決断なのか。それとも、まったくの取り越し苦労で、学術的な大発見の報告、あるいはそれに関連した技術的な相談だろうか。否、それも考えられない。そんなことはネット上で済んでしまうこと。どう見ても、四季に直接関係のある話題にちがいない。それはつまり、あの細胞から生まれた生命のこと……。  少しだけ自分の鼓動が意識された。微差だが、通常よりも速いように観測される。珍しいことだと感じた。彼女の中のほとんどが今、中心思考に集まろうとしている。別のことを考えている部分はなかった。こうした集中に際しては、体内に熱を感じる。実際に発熱するわけではない、イメージがもたらす連想だろう。あるいは、子供のときに、そうした体温上昇を経験した名残《なごり》だった。  長く生きた。  そう思う。  意味もなく、希望もなく、  何も願わず、何も祈らず、  よく、ここまで生きてこられた。  よくも、生きる作業を切り捨てずに、いられたと思う。  彼女の中の多くが同意した。  乗っているロケットが、どこへ向かっているのかなど、乗組員には無関係なことか。話題にはしても、まるで天気を確認する挨拶みたいに、瞬間的な意識の断片を発射する程度のこと。  好きになり、そして諦め、  何も好きにならないようにして、それにも厭きて、  どちらでも良い、何も決めない、何も求めない、  そんな状況にもまた懲《こ》りて、最後には好きになり、  けれど、好きだったものは消えている。  愛して、そして破壊して、  何も愛さないように努め、それにも疲れ、  どちらでもない、何も触れない、何者にも触れさせない、  そんな状況もまた陳腐化し、最後には愛する形を創り出し、  そして、愛したものを失ったと気づく。  そう……、  気づいた。  自分の周囲に群がる愛をすべて破壊して、  彼女は、彼女になった。  それは、殻を破る雛《ひな》と同じだった。  乾いた翼が欲しかったのだ。  自分のこの躰を持ち上げるだけの力が、  欲しかった。  おそらく、  その形骸の中に、  落ちている殻の破片を集めて、  再び、その殻を再生しようとしているのだろう。  自分も卵を産みたい、と考えたのかもしれない。  そこに自分が入るわけでもないのに。  その中に生まれるものは、もう自分ではないのに。  それどころか、その新しい生命も、また殻を破壊し、それを作った彼女を愛し、あるいは憎み、彼女を破壊しようとするかもしれない。  繰り返しだ。  どうしても、断ち切れない連鎖。  こんな些末《さまつ》でつまらない存在の躰に、生命が閉じ込められている不幸が、  すべての原因。  それが悪魔。  それが地獄。  断ち切れないのは、すべて、そいつのせいなのだ。 「私は、もう死んでいるのよ」四季は呟いた。  それを聞いていたのは、犀川だった。 「切り離せますか?」彼はきくだろう。 「できるわ」彼女は頷く。  人と人が、別れられるように。  人とこの世が、別れられるように。  人とこのときが、別れられるように。  切り離してみせよう。 「貴女は、貴女から生まれた」彼は言った。  私は私を殺して、私は私になった。  私は私を生かして、私は私を棄《す》てた。  私と私が、別れられるように。  私とこの世が、別れられるように。  私とこのときが、別れられるように。  すべてを、切り離してみせよう。 「貴女は貴女だ。そして、どこへも行かない」  私が私であるためには、  どこからも、いつからも、私が遠ざかる必要があった。  空間と時間からの決別こそ、自己存在の確定。  浮いてみせよう。  何ものにも触れず、  何ものからも受けず、  何ものへも与えず。  すなわち、私がすべてになる。 「矛盾している」犀川が言った。「貴女は、その矛盾に気づいているはずだ」 「言いましたでしょう?」彼女は微笑んだ。「矛盾が綺麗だって」      7  殺菌室の次に、彼はその部屋に案内された。  壁には動く幾何学模様が映し出されている。天井は高く、中央にある座席をリフトアップさせる機構が斜めに延びていた。何に使うものだろう。久慈昌山はそれを眺めながら、ソファの一つに座った。  パティが温かい飲みものを運んできた。残念ながら、彼にはもう味を識別する神経がなかったので、それを評価することはできなかった。  やがて、奥の光学カーテンを抜けて、真賀田四季が部屋に入ってきた。もちろん、彼女本人だと断定はできないが、彼は第一印象で確信した。しかし、一瞬あとには、自分の判断を疑った。  驚くべきことに、四季はまったく変わっていなかった。歳をとっていないのだ。最後に会ったのは、いつだったか、少なくとも何十年もまえになるのに、そのときのままの印象だった。  彼女が近づいてくる。  優雅な歩き方で。  ソファの前で四季は立ち止まる。  慌てて、久慈は立ち上がった。  手を差し出し、そして、彼女の手を握った。  四季は白い手袋をしている。  青い瞳を確かめる。  言葉を思いつかない。  目の前に立っている女性が、いったい何者なのか、それを考えなければならないのに、彼女に見据えられ、息をすることさえままならない状態に陥った。 「ようこそ、ドクタ」四季がさきに口をきいた。  久慈は咳き込んだ。 「どうぞ、お楽に」彼女はそう言うと、テーブルの反対側のソファへ行き、そこに腰かけた。  長い黒髪には、紫色の飾りが光っていた。ドレスも紫色で、首のところでリング状に立ち上がっている。肘の上までが長い手袋に隠れ、肩だけが露出していたが、そこも大半は髪に覆われていた。長いスカートのため、履きものは見えない。優雅な曲線と細かい折り目、紫の生地に、白と黒の繊細な模様が動いていた。  彼女は一度目を伏せ、次に首を傾げ、僅かに口もとを緩めて、青い瞳から発する輝きを、彼に注いだ。  何から話そうか、と彼は必死になって考える。 「どうも、まったく……、お恥ずかしいかぎりだ」彼はようやく言葉を見つけた。大きく溜息をつく。「我が儘をきいてもらって、本当にありがとう。感謝している。生きているうちに、君にまた会えるなどとは思ってもみなかった。会うつもりも、なかったのだよ」 「私を見て、驚かれましたね。私が本ものの真賀田四季なのか、と疑われた。しかし、たちまち、そのギャップを推論によってカバーされました。ドクタでなければ、できないことです」 「眠ることに、うまく対応できたようだね。スワニィのおかげかな?」 「複数の技術が実現したものです。今でも改良が重ねられています。もっと安全で、もっと快適になるでしょう。地球から離れるためには、必要な技術です」 「その必要があると考えているのかね?」 「いいえ」四季は首をふった。「必要だとは思いません。私は、人類が必要だとも思っていません」 「良かった……、本ものだな」久慈は皺を寄せてにっこりと微笑んだ。 「お話を伺いましょう、どんなことでも」 「君から預かった生命は、まだ生きている」彼は結論をさきに話した。  四季はそのままの姿勢で一度短く目を閉じた。  二秒。  再び彼女の瞳が真っ直ぐに彼を捉える。 「感想は?」久慈は尋ねた。 「良かった」彼女は呟く。 「ああ……」久慈は頷いた。「ここへ来て、良かったよ」 「でも、それをおっしゃるために、わざわざこちらへいらっしゃったのではありませんね?」 「もちろんだ」久慈はまた溜息をついた。「君が、もう突き止めているのではないか、彼のことを探し出したのではないか、と私は考えていたのだが」 「彼?」四季は首を傾げた。「男性なのですか?」 「そうか、知らなかったのだね。それとも、私の手前、知らない振りをしてくれているのかな?」 「いいえ、存じません。私は、ドクタとのお約束を守り、一切の干渉を自制し、その関わりを避けてきました。そんなおっしゃり方は、いかがかと思いますわ」 「悪かった。どうか許してほしい」彼は頭を下げる。「この歳になると、何がリアルで、何がデコレーションなのか、とにかく、疑い深くなるものなのだよ」大きく息を吸い、勢い良く吐き出す。溜息のショックで心臓が止まりそうな気がした。「では、ちゃんと説明をさせていただこう」  四季は膝に手を置き、姿勢良く座っている。青い目も赤い唇も動かなかった。 「わしの曾孫になる娘が殺された、という話をしたね。既に君が犯人を指摘した例の連続殺人事件。その被害者の一人だ。彼女は銃で頭を撃ち抜かれて、即死だった。残念ながら、とても救えなかった。わしは、いったい何のために、こんな研究をしてきたのかな?」 「そのデータは存じております。ドクタ、無理にお話しになる必要はありません」 「ああ、確かに不必要だ。もう一つ、いらないデータを提供しよう。もう百年以上もまえのことだ。まだ子供だった。想像できるかね? わしにも、そういう時分があったんだよ」彼は喉を鳴らして笑った。「五歳だった。姉がいて、彼女は八歳だった。姉は私を連れて、道を歩いていた。どこかへ行くことになっていたのか、それとも、どこかからの帰りだったのか、まるで覚えていない。駅前の人混みを抜けて、少しだけ静かな裏道へ出たときだった。後ろで大きな音がして、見ると、こちらへ何かが滑るように向かってくる。それはくるくると回転しながら近づいてくるのだ。それが何なのか、わかったときには、もう目を瞑っていたよ。トラックと大型のバイクが派手に接触して、そのバイクが跳ね飛ばされた。それが、こちらへ飛んできたんだ。目を瞑ったが、躰は衝撃で飛ばされた。アスファルトに顔をぶつけて、とても痛かった。泣く暇もなかったな。それでも、起き上がってみると、姉が電信柱のところで、両脚を投げ出して座っていた。近づいていくと、喉のところが真っ赤に濡れている。それが、みるみる広がっている。彼女は、『まさちゃん、大丈夫だった?』とわしに言ったんだ。それが最後の言葉だった」  久慈は、深呼吸をした。  四季は、真っ直ぐに彼を見ている。表情は変わらなかった。 「そのときには、悲しみの意味が、わしにはわからなかったように思うね。とにかく、わけのわからない憤《いきどお》りだけがあった。大人たちは、わしに、見るなと言った。姉が運ばれていくとき、見せてもらえなかった。医者は、彼女を救えなかった。あんな簡単なことが、どうして元通りに戻せない? どうしてだ? 原因がはっきりしているのに、何故、治せないのだ? こんな簡単に命が消えてしまって良いのか? 一度消えてしまったら、もう永久に取り返せないのか? そういった自問を、わしはずっと持ち続けてきた。以来、これは誰にも話したことはない。死んだ女房にだって一度も話さなかった。そういう後ろめたい人生だったんだよ。だが、わしがメスを持つときには、必ず、あの電信柱の姉の姿が目の前にある。わしはただ、一人の人間を救おうとしているにすぎない。それは、ベッドに寝ている患者でも、死んだ姉のことでもない。そうではない、この久慈昌山という、歳をとった老いぼれの少年だ。いまだに姉の姿を消すことができない、もう彼女を救うことができない、哀れな少年だ。なんとか、彼一人を、救おうとしているのにすぎない」  久慈はそこでまた咳をした。 「お聞かせいただいて、感謝します」四季は静かに言った。 「いや、そんなものでもなかろう。大事なことを言わねばならん。わしの曾孫が撃たれたとき、そこには、もう一人被害者がいた」 「はい、名前はありませんでしたが、その記録は読みました。彼は一命を取り留めたのですね。したがって、個人情報が消されたものと思いましたが」 「そう……」久慈は頷いた。「その人物が、君の子孫だ」 「え?」四季は目を見開いた。 「驚かせて、すまない」彼は両手を合わせる。「彼も、背中から腹部を撃たれ、大怪我だった。だが幸い、頭脳、脊髄《せきずい》には損傷がなく、生命の存続は可能だった。わしが子供の頃とは大違いだ。二人は病院へ運ばれ、わしが診察をした。わしの指示で、弟子たちが治療に当たった。そして……、ここからは、カルテには書かれていないことだ。スタッフにも口止めをした。しかし、君には、どうしても話さなければならないだろう。そう思ったから、やってきたのだ」  四季は再び無表情に戻り、彼を静かに見据えていた。 「わしは、娘を生かしてやりたいと思った。彼女の躰は、まだ生きていたのだ。一方、君の子孫は、対照的にボディのダメージが大きく、大半を人工のものに取り替えないかぎり、普通に生きていくことは無理だと思われた。わしはそこで、かねてより研究を進めてきた最新の方法を試してみる決断をした。すなわち……」 「頭脳を別の肉体に移植した?」四季が言った。「しかし、それは無理がある。必要なインタフェイスが付随して、頭脳の活動を維持するには、個体ではあまりにも負担が大きくなりすぎる。外部の維持装置も必要になる。普通の生活など、とうてい無理です」 「そのとおり」久慈は頷いた。 「では、まさか、維持装置も組み込んだ?」四季は目を細め、身を乗り出した。  久慈は、無言で頷く。 「成功したのですか?」四季は尋ねる。  久慈は、もう一度頷いた。 「どうやって?」彼女の眼差しはますます強くなった。「私も、それと同じことを試そうとしました。機会があれば実験をしたいと思っています。しかし、問題は多い。実に多い。消費エネルギィの問題から、活動範囲が限られる。よく、そんな危険な賭けを……」 「許してくれ」久慈はテーブルに両手をついて頭を下げた。「このとおりです」 「私が許す許さないの問題ではありません。ドクタ、どうか……」 「生きている間に、わしは、わしの理論を、試してみたかった。その衝動は、確かにあったと認める。また、曾孫の躰は、まったく他人のものというわけではない。わしの血から生まれたものと解釈もできる。人権を無視した言い方だが、その驕《おご》りもあっただろう。さらには、君から預かって育てた彼も、やはり、わしがこの手で創り上げた生命だった。こんな奇跡的な条件が揃うことは、もう二度とないだろう。これは、神が、わしに与えた問いかけではないか……。お前に、これができるか? そう神は問うたのだ」 「私に、どうしろとおっしゃるのでしょうか?」四季は無表情のまま尋ねた。 「いや……、すまない。君に何かをお願いするつもりはない。わしは何も望んでいない。ただただ、君に、知ってもらいたかっただけだ。つまりは、わしの個人的な欲望、つまらない自己満足にすぎない」 「ドクタがそれをお話しになられたということは、私はもう、ドクタとのお約束に束縛されない、と考えてよろしいのでしょうか? もう、私のミチルに……、接触をしても良い、ということでしょうか?」 「人道的なレベルなど、とうに超越している。君は初めからそれを望んでいた。わしが手を貸したことは、既に一線を越えていたのだ。だからこそ、あのとき、そのせめてもの歯止めとして、わしは、君に約束をさせた。悪魔と契約するのは、このわし一人で充分だと考えたからだよ」 「何をおっしゃっているのですか? とても科学者のお言葉とは思えません」 「いや、どうか怒らんでくれ。その後のわしの行動も、すべて人の道を外れておる」 「私は、そうは思いません」 「しかし、そう思っているのは、君だけだ」 「私だけで充分です」四季は即答した。  久慈は溜息をつき、両手を握り締めた。躰が細かく震えている。 「そのとおり」彼は小声で言い、頷いた。「君一人の評価で、充分だ。君の評価は、人類全体の評価に匹敵する。君は、神以上の存在なのだ」 「そういう意味ではありません」 「いや、同じことだよ。君はわしの神なのだ。だからこそ、ここまで懺悔《ざんげ》をしにきたのだ。わしは、神の子を預かった。そうでなければ、どうしてあんなことができよう? え? そうじゃないかね?」 「ドクタ、どうか、ご冷静に」四季は優しく言った。「私は神ではありません。私も、ドクタも、科学者です」 「そう……、そうだな。とにかく……」彼はまた頭を下げた。「感謝する。聞いてもらえて、多少は救われただろう。本当にありがとう」 「いえ、驚きはしましたけれど、もちろん、お聞きして良かったと思います」四季は僅かに微笑んだ。「ドクタがなさったことに対して、私は何の意見も持ちません。そのときの最良の選択をなさったものと信じます。まだ生きている、ということがわかっただけで、私には充分です。その事実認識だけが私に影響します。会う会わない、あるいは、彼が私を認識するしない、も問題ではありません。亡くなったのでなければ、それで良いのです。存在していさえすれば、それで良い」 「どうして、そんなふうに考えるんだね?」久慈は尋ねた。 「わかりません」四季は首をふった。「これは、私にも、理由がまったくわかりません。いろいろな解釈を試みましたが、どれも充分に説明できるものとは思えないのです」 「気分を悪くしないでほしい」久慈は上を向き、目を瞑った。「あの電信柱にもたれた姉の姿は、もうすっかりぼやけているのだ。そのときの彼女の顔を、しっかりとは思い描けなくなってしまった。あのとき、わしは、姉の指を切ろうかと考えた。いや、違うな。それは、彼女の葬式のときだったかもしれない。子供心に、姉はもう死んでしまって、どこかへ行ってしまう。大人たちに尋ねると、死体を燃やすのだと言う。それでは、もう消えてしまう。何もかもなくなってしまうように思えた。せめて、彼女の躰の一部だけでも、自分は持っていたい、そう考えたのだ。指の先を切って、瓶の中にでも入れておけば良い。保存の方法があるに違いない。どこかで、そんなものを見たことがあったんだろうね。だから、それを、大人たちにお願いしてみた。もちろん、そんな要求はきき入れてもらえなかった。今にして思えば、あれは、実に残念なことだったと思う。後悔しているよ。それだから……、わしが初めて君に会ったとき、君が、あの冷凍保存された手首を見せてくれたとき、わしは何も言わずに、それを引き受けただろう?」 「はい、そうでした」 「つまりは、わしが切ることのできなかった姉の指への償《つぐな》い、そう直感したからだ」 「よくお話し下さいました」四季は頭を下げた。 「ああ……」久慈は目を開け、深呼吸をした。「不思議なものだ。因果なものだね。この世の巡り合わせとは、なんとも、おかしなものじゃないか。え? そうは思わんかね? いったい、我々は、どこへ辿り着こうとしているのだろうね」 「わかりません。しかし、少なくとも、前進はしています」 「本当にこれが前進かな?」 「辿り着くためには、前でも後ろでも、進まなければなりません」 「何に辿り着く気だ?」 「わかりません」 「わしは、神も仏も信じなかったが、二度だけ祈った。姉のときと、そして、今回のあとに」 「二度目は、通じましたか?」 「神などいない。成功したのは偶然だ」 「いえ、技術の勝利です」 「会えて良かった。もう、話は終わりだ。では、これで失礼する」久慈は立ち上がった。 「どうか、ごゆっくりしていって下さい。もっと、ドクタとお話がしたいと思います」 「ほう……」彼は顔を上げ、目を細めた。「これはまた、真賀田四季の言葉とも思えない。びっくりしたよ」 「いろいろと、お見せしたいものもございます」 「是非拝見したい」 「そのまえに、まず、お茶を」 「ああ……」久慈はソファに座り直した。「そう、これは失礼をした」 「パトリシア」四季は横を向いて、アシスタントを呼んだ。「お持てなしの用意を」  戸口に現れた長髪の女性が、無表情のまま頷いた。 [#改ページ] 第4章 青い部屋 [#ここから5字下げ] かねての宿願がいま突然に現われたからとて、びっくりして怯《お》じてはいけません。なるほど、ここに現われたものは、あなたの期しておられたものと、形はあるいはちがいましょう。元来願い事というものは、望む当人に本当の姿をかくすもので、授《さず》かり物はそれ独特の形で天から来るものなのです。 [#ここで字下げ終わり]      1  月が落ちそうなくらい大きかった。  草原は光る糸で織られたように滑らかだった。  二人は一頭の白い馬に乗り、ゆっくりと丘を上っていく。  音楽が聞こえた。僅かな風。建物は既に小さく、その他のシルエットと同化していた。少女の金色の髪が、馬の歩調に合わせて膨らんだ。 「今夜の月は、とても近いように思います」少女が言った。「どんどん近づいて、もっと大きくなるようなことがありますか?」 「いいえ」彼女は答える。「心配はいりません」 「夢の中でも、月をよく見ます。ときどき、少し恐いほど……」 「月が?」 「はい。あれは、何をするものでしょうか? 何のためにあそこに、ああしているのですか? こうして夜の散歩に出かけるときには、明かりとして人の役に立ちますけれど、いつも、同じように役に立つともかぎりません。晴れていても月の出ない夜もあります。とても気まぐれですね」 「そうね。でも、それは月だけのことではありません。この世にあるものすべてにいえることです。空も、地面も、植物も、動物も、そして、人間も、すべてのものは、何のために、そこにあるのか、わかりません。ただ、一つのものは、他の沢山のものと関係しています。一つのものがなくなれば、他のものも、そのままではいられません」 「では、その、他のもののためにあるのですか? 月もそうですか?」 「いいえ、他のもののためにあるのではなく、あることによって、他のものに影響を与えてしまうのです。月があるために、海の干満が起こります。だから、月がなくなれば、潮の満ち引きを必要としている生物は死滅するでしょう。しかし、月は、それらの生命を生かすために、あそこにあるのではありません」 「私は、海を見たことがありません」 「いつか、見られますよ」 「海は、月よりは、人間に必要なものに思えます」 「それは、人間との関係が強い、ということ」 「人間も、他の多くのものと、関係しているのですね?」 「そうです。一人一人の人間の存在が、その周辺に影響を与えます。その一人がもしいなくなれば、周辺の者は、困ったり、悲しんだり、あるときは喜んだり、あるときは生活に大きな変化さえ起こることがあります。ですけれど、その一人は、それらの人たちのために存在していたのではありません。つい、誰かのためになりたい、皆の役に立ちたい、そうして、それを自分の存在の理由にしたい、と人は考えがちなのです。存在の理由を、わからないままにしておけないのね。常に答を欲しがる。それが人間という動物の習性です」 「欲しがってはいけないのですか?」 「いいえ、欲しがることは間違いではありません。しかし、答はないのです。完全なる答などありません。それは、貴女が、あの月へ向かって歩き続けることと同じ。月は目標にはなるけれど、あそこに到達することはできないでしょう? それはわかりますね? 存在の理由をいくら問うても、答はないのです。でも、それを問い続けることは、とても大事なことですよ」 「近づくことは、できるのですね?」 「そう考えれば良いと思います。私にも、それはまだわかりません」 「お母様にもわからないことがあるのですか?」 「もちろんです」 「神様にも、わからないことがありますか?」 「ありますよ。わからないことがあるから、人は優しくなれるのです」 「え? どうしてですか?」 「すべてがわかってしまったら、何も試すことができません。何も試さなければ、新しいことは何も起こらない。神が試さなければ、この世はなかったでしょう。人も、わからないことの答を知りたいと思って追い求める。そこに、優しさや、懐かしさ、そして、喜び、楽しみが生まれるのです」 「私は、お母様にいつもきいています。こうして、答を求めていることで、私は優しくなれますか?」 「そうね」彼女は娘の髪に触れた。「私がいないときも、いつも問いなさい。誰も答えてくれないときでも、問い続けなさい。自分で自分に問うのです。それを忘れてはいけません。それが貴女の優しさになるでしょう」      2  次の瞬間には、馬に乗っているのは四季一人だけだった。  草原の細波《さざなみ》が斜めに流れていく。月はいつの間にか高く小さい。影は彼女のすぐ横を走っていた。  冷たい空気が頬に当たり、目を細めずにはいられない。  やがて、別の場所、別の時間と融合して、彼女の大半はそちらへ移動した。馬に乗っている周期的な揺動は、少しずつ消えていった。  洗濯機が目の前で回っている。  そこに投げ込まれた紫色の布。それが偏心した模様を作り、少しずつ形を変えていた。サイケデリックだが、単調だった。その形は、こみ上げてくる憤りを解釈し、人間の怒りと孤独と、そして希望の関係を描いているように思えた。  血だ。  次に、炎。  前方には展開する夜空。  そのほんの一部が、明るく燃えていた。  オレンジ色の美しい光。  生きもののように蠢《うごめ》く。  排気ガスよりも強い刺激臭が立ち込めていた。  これは、西之園萌絵だ。  彼女は、泣いている。  それとも、怒っている?  怒りと孤独の形は、その根元では似ている。識別は非常に難しい。血に汚れた紫のワンピースを洗っている。捨ててしまえば良い。しかしこうすれば、もっと悲しくなれる。自分をもっと惨めにする方法を探していた。  孤独を見つけて、  孤独の中に逃げ込もうとしている。  惨めさを探し、  惨めさの中で甘えようとしている。  助けてほしくない。  自分にさえ、手を差し伸べてほしくない。  たとえその血が、自分のものであっても、すっかり綺麗に流しきってしまいたい。躰の中を空っぽにして、初めから何もなかったことに、何も存在しなかったことにしてほしかった。  リセット。  死体が床に並んでいる。  何故か、少しずつ離して置かれていた。  生きている者たちが、その死体の横に立てるように。  駐車場の車みたいに、綺麗に並んでいる。  まるでドミノ倒しのように。  こんな広い場所に集められて。  板張りの床は、ワックスが塗られ光っていた。  高い窓の光を反射して。  下ばかり向いている自分が映っていた。  どれも、白いシート、  全部、白いシート。  覆われて。  そのシートの端を掴み、それを持ち上げ、  その中のものを、  見る。  一つずつ。  見る。  見る。  真っ黒に焼けて。  爛《ただ》れて。  溶けて。  戦争でもあったのか。  戦争でも、災害でも、事故でも、結果は同じ。  見る。  見る。  何度も見なければならない。  原因がわかったときには、何もかも終わっている。  元には戻らない。  遅い。  遅すぎる。  見た。  彼女は、それを見た。  見なければならないと勘違いして、それを見たのだ。 「ごらん、これが、人間だよ」  電信柱にもたれかかる姉の喉から流れる血に、  指を近づけたときのように。  紛れもない無意識。  暴走している好奇心。  しかし、明らかな純真。  これを糧《かて》にすることが、生命のシステム。  消し去るには、それを食べるしかない、バクテリアのように。  突然、足許に人形。  棚から人形が落ちてきた。  床に広がる血の中で、  人形が仰向け。  待っていた。  見る。  見る。  拾ってほしい顔をしている。  四季はそれを拾い上げた。  これまで、何度もそれを見てきたけれど、  手を出すことができたのは、初めてだった。  彼女はその人形を抱き締める。  血はとうに乾いていた。  ああ……。 「ごめんね、可哀想に……」彼女は呟いた。  可哀想に。  可哀想に。  可哀想な、私。  懐かしい匂いがする。  顔を上げると、天井から人形がぶら下がっていた。  首を吊っている。  その人形にも手を伸ばす。  彼を抱き締めて、キスをする。  彼が描いた絵を両手で広げて、その中へ二人で一緒に入った。  黒い船に乗る。  彼は小さなナイフを持っていた。  それを振り上げて、彼女へ突きつける。  刺されてあげよう、と四季は思った。  血を流そう。  私の血で良ければ。  死んであげよう。  何度でも。  貴方のために。 「ごらん、これが、人間だよ」  彼は微笑んだ。  その笑顔を見て、彼女も微笑んだ。  壊すことで、壊れることで、示せるものがある。  そう……。  それが、まだある。      3  いつの間にか、草原は海となり、岬へ続く浜辺のカーブが彼女の前にあった。海の中に太陽は沈み、そのために海がぼんやりと光っていた。黒い砂浜には、とんでもなく大きな貝殻が打ち上げられている。巨人が落としていったアクセサリィのようだった。 「先生……」西之園萌絵の声が聞こえる。  眩暈《めまい》がした、と彼女は感じるだろう。  躰が揺れる、と彼女は感じただろう。  急に、とんでもない幻想に襲われるはず。  真賀田四季が、ここにはいない、という幻想だ。  四季は、この世にはいない。  死んでいる、と言った。  では、先生は……? と彼女は考える。  犀川も、この世には、いなかったのだろうか?  最初から、ここにいたのは、自分だけなのでは? 「そう、それが、人間の孤独というものよ」四季は呟いた。「どれだけの人が、本当の孤独を見られるでしょう? 貴女は幸運。それを見ることができたのです」  すべては、  ただ夢を見ていただけなのか、と萌絵は思う。  ずっと、  犀川がいるという夢を、自分は見てきたのだ、と。 「そのとおり、思い出してごらんなさい」  そんな感覚が、確かにあったでしょう?  あのとき……。 「いつ?」 「真賀田博士が、私たちの前に立ったとき」萌絵は答える。 「私のせいかしら?」 「わかりません」 「私は、そこにはいない。貴女が、私がいると認識しただけのことです」 「わかりません」 「でも、貴女は、そう感じた。孤独を掴んだのよ」 「犀川先生の手を離してしまったとき。それを感じた。自分だけが、違うところにいる、という違和感」  萌絵は、息が苦しそうだ。 「どうして……?」 「どうしてかしら」 「犀川先生、本当にいたの?」萌絵は小声できいた。  子供のような泣き声だった。 「貴女は、本当にいたの? 今、本当にいるの? 貴女のお父様はいたの? お母様はいたの? 本当にいたの? どうして、本当にいたと言えるの?」  泣いている少女が顔を上げる。  青い目をした、小さな顔。 「怒らないで……」 「誰も怒ってやしない」 「叔父様?」 「大丈夫だよ、みんなが、君のことを愛している」 「叔父様は、本当にいたの?」 「ここにいるじゃないか」 「私が作ったものじゃない? 全部、私が想像して、頭の中で、私が動かしているお人形なんじゃない?」  少女は、泣いて、とても、苦しそうだった。  私を怒らないで……。 「心配はいらないよ」  お願いだから……。  目の前が白っぽくなる。  海も、砂浜も、白くなった。  明るくなった。  そこに立っているのは、一人の少女。  自分はまだ子供だ。  夢を見ていたのだ。  夢?  否、すべては現実、そして、すべては夢。  病院のどこかで眠っているのだろうか。  それとも、飛行機のシートで眠っているのだろうか。  まだ、目が覚めていない。  きっと……、  将来の夢を、見ているところ。  ずっと将来のことを、夢の中で想像している。  作っている。  大人になったときの夢を。  将来を。  見ている。  作っている。  トランプの手品を見てくれた犀川の顔。  来週も来てくれるだろうか……。  私は誰?  図書館の書棚の間に、彼女は立っている。  スチールの棚に、片手をかけて。 「貴方のお母様に、さきほどお会いしたばかりよ」 「母に?」 「煙草が吸いたいのでしょう?」 「ここでは、吸えませんよ。図書館は禁煙です」  苦しい……。  優しい目で、彼女を見つめる父の顔。  さらに優しい目で、彼女を見る母の顔。 「四季さん!」  誰かが、窓の外で私の名前を呼んでいる。  広間の中央に、彼女は一人立っていた。  周りには、誰もいない。 「其志雄?」彼女は呼んだ。  返事がない。  どこへ行ったのだろう?  みんな……。  消えてしまった。  もう、眠ってしまったのだろうか。  私は、もう眠ってしまったのだろうか。  消えたかった。  それとも、私以外のものすべてが、  消えてしまえば良い、と思った。  最初から、そうだった。  生まれたときから、そうだった。  ずっと、それをお願いしていたのだ。  神様に……。  どうか、私を消して下さい。  どうか、すべてを消して下さい。  私の姿も、私の心も、すべてを、消して下さい。  お父様も、お母様も、私の愛するものすべてを。  神様。  お願いします。  どうか、消して下さい。      4  部屋のドアを開けると、そこは砂浜。  彼女は、大きな貝殻から外へ出た。  知らないうちに、その中へ足を踏み入れてしまったらしい。 「真賀田博士」  犀川創平がそこに立っていた。  四季は微笑む。  急に嬉しくなった。  彼女の内部が、一瞬で明るくなった。  二人は、浜辺に沿って歩く。  彼女の方が先へ。  彼に自分を見てもらいたいと思ったからだ。  何を見てもらいたいのだろう?  見てくれるだろうか?  砂浜と真っ黒な海が広がっていた。  風景なんていらないのに。  どうして、こんな風景があるのだろう。  どこだろう?  いつだろう?  それでも、彼女は歩いた。  振り返らなかった。  振り返らなくても、犀川の姿が見えたからだ。  彼も黙っている。  彼の内部で誰かが叫び続けていたけれど、その声は小さくて、四季にはよく聞こえなかった。それを聞かせないために、彼は口を閉じているのかもしれない。  統合されていない。  融合されていない。  しかし、やがて調和が訪れるだろう。  寄せる波の僅かな音が周期的に届いて、その予感を運んだ。  微細粒子が擦れ合い、摩擦の叫びを閉じ込める。  期待は泡のように細かく分断され、水中に紛れ込むだろう。  だから、  その白い泡が、密かに、  黒い海のエッジを、  ここだよ、と教えてくれる。  その期待も、すべて生命が発したもの。  最後には海へ、空へ、そして地へ還っていく生命たちが。  泡のように甘く、  香りのように速く、  夢のように溶けていく。  音のように消えていく。  これは、  何だろうか……。  どうして、私は、  ここを歩いているのだろう。  過去も。  未来も。  そして今も。  ここにある。  そして、ここにはない。  どこにも、なかった。  指を切って、弟にあげよう。  可哀想に……。  紫色のワンピースの血を、嘗《な》めてあげよう。  大丈夫。  自分は死んだのだ。 「どう? もう綺麗になったかしら?」四季は振り返って、犀川に尋ねた。 「綺麗に?」 「言葉では、そうとしか言えないわ」彼女は立ち止まり、じっと犀川を見た。「貴方の中の……意志は、今、何を見ていますか?」 「海辺と、真賀田博士です」彼は答える。 「寒くありませんか?」 「ええ、寒くはない」 「どうして、私、こんなお節介をするのでしょう?」可笑しかった。彼女は吹き出す。「こんな不思議な感情は、今までになかった。希代《きたい》な経験です」 「綺麗な感情ですね?」犀川のその言葉がエコーする。  綺麗。  綺麗。 「ああ……」四季は驚いた。目を細め、宇宙の果てを想像する。時間の果てを垣間見た。「貴方は、天才だわ」 「いいえ、僕は天才じゃない」  宇宙だ。  何もない宇宙にいる。  四季は、首を傾げた。 「私たちは、どこへ行くと思います?」 「どこへ?」 「どこから来た? 私は誰? どこへ行く?」 「貴女は、貴女から生まれ、貴女は、貴女です。そして、どこへも行かない」  四季はまたくすっと笑った。 「よくご存じですこと。でも、その三つの疑問に答えられることに、価値があるわけではありません。ただ、その三つの疑問を問うことに価値がある」 「そうでしょうね」犀川は頷いた。「価値がある、という言葉の本質が、それです」 「リカーシブル・ファンクションね。そう、全部、それと同じなの。外へ外へと向かえば、最後は中心に戻ってしまう。だからといって、諦めて、動くことをやめてしまうと、その瞬間に消えてしまうのです。それが生命の定義。本当に、なんて退屈な循環なのでしょう、生きているって」 「退屈ですか?」 「いいえ」四季はにっこりと微笑む。「先生……。私、最近、いろいろな矛盾を受け入れていますのよ。不思議なくらい、これが素敵なのです。宇宙の起源のように、これが綺麗なの」 「よくわかりません」 「そう……、それが、最後の言葉に相応《ふさわ》しいわ」 「最後の言葉?」 「その言葉こそ、人類の墓標に刻まれるべき一言です。神様、よくわかりませんでした……ってね」 「神様、ですか?」 「ええ、だって、人類の墓標なのですから、それをお読みになるのは、神様しかいないわ」 「驚きました。真賀田博士がそんなことをおっしゃるなんて」 「矛盾が綺麗だって、言いましたでしょう?」 「ああ、そうか」犀川は微笑んだ。「なるほど、僕は……」 「飲み込みが遅い」四季は微笑んだ。  彼は、ポケットに手を入れて、煙草を取り出した。 「これを忘れていました」犀川はそう言って、煙草に火をつける。「今、何時ですか?」  四季は笑った。  犀川は煙を吐き出す。  自分の躰は生きているらしい、と彼は考えている。  煙草を口にするとき、指がゴーグルに触れ、  この虚構を彼は自覚しただろう。  四季の姿は明るく輝き始めていた。  それは、犀川が見ている映像。  しばらく、黙って、犀川は四季の姿を眺めている。  彼女には、もう犀川は見えなかった。  余韻が残る。  残響が……。 「もう、お別れです。犀川先生。今度お会いするときは、きっと、どちらかが死んだときでしょう」 「もう死んでいるのではなかったですか?」 「ええ……、何回も」 「僕も、あるいは、そうかもしれません」 「もし私が死んだら、先生はどうされます?」 「その一日、禁煙しましょう」 「もし先生が死んだら、私は泣いてみたい。一度で良いから、泣いてみたいわ」 「泣けると、良いですね」 「ええ……」 「さようなら」 「さようなら」  四季は、海の上を歩いた。  穏やかな暗い海面。  忘却の海とは、こんなふうだろうか。  何も沈まない。  何も浮かばない。  その向こうで待っている知性。  懐かしい太古からの明晰《めいせき》。  何も忘れてはいない。  何も失われてはいない。  残像がしばし浮かび、そして消えていくだけ。      5  久慈昌山から、頭脳移植の具体的な手法を四季は聞いた。それはアクロバット的な解決で、久慈の天才的発想が生み出したものだった。同様の手法を試みている四季の試行が、いずれもハードとソフトの両面で壁にぶつかっていることからすれば、まさに画期的だ。しかし、それでも、聞いただけでは納得がいかなかった。彼が話していない秘密がありそうだった。 「これは、わしの推測だがね」お茶を飲みながら、久慈は話した。「今回のことが一応の成功をもたらした主たる原因は、被験者が極めて特殊な遺伝子を持っていたことにある。何の確証もないことだが、そうとしか思えないのだ。なんだろう、つまり、もしかしてこれは、単なる突然変異だったのかもしれない。わしが手を下したのではない、たまたま、そこに立ち会った、遭遇しただけのことで、これは、起こるべくして起きた生命の進化なのではないかと」 「その一部には、確かに、真理があるかもしれません」四季は答える。 「君の遺伝子だからだよ。どう見ても、一般的だとはいえない。したがって、この次、もう一度同じ手法でチャレンジをすれば、失敗するだろう。間違いない。その次も、やはり失敗するだろう。この予測は当たるよ。たまたま、最初に当たり籤《くじ》を引いてしまったのだ」 「当たり籤かどうかは、まだわかりません」 「そう」久慈は頷いた。「そうだな。それは、全部の籤を引くまでわからない」 「また、籤を引かれるおつもりですか?」 「まさか」彼は笑った。「とんでもない。もう、こんなチャンスは、わしには回ってこないよ。それに、もし万が一、これに近いチャンスが巡ってきても、やる気はない。もう、それは明らかにチャンスではない。わしの教え子たちが、やりたければやるだろう。わしの意志を継いでいると勘違いしている奴らも、やるかもしれない。おそらく、まだまだ多くの失敗を重ね、辛い経験をしなければならない。試練はこれからだ。だがしかし、わしの仕事は、もう終わった。実のところ、最後の仕事は、やるべきではなかった、と半分以上は後悔している」 「それは、私が、ドクタを恨んでいる、とお考えだからですね?」  下を向いていた久慈は顔を上げ、四季を見た。 「そうだ」彼は目を閉じる。 「私は、恨んではいません。また、感謝もしていません。私は、既に、あの細胞を、自分から切り離していたのです。ドクタにお預けしたときには、既に私はそれを諦めていた。自分ではどうにもできない、と考えていたのです。失礼ですが、だからこそ、人に託すことができた。したがって、あの時点で、あれはドクタのものでした」 「それでも、わしは、君の評価を聞きたい。そのために、ここへ来たのだよ。わしがやったことは、善か悪か?」 「それにお答えするには、私やドクタが、今立っているここが、天国なのか、それとも地獄なのか、それをじっくり議論しなければなりませんわ」 「うん、それは難題だ。その議論に答はないな」 「いずれにしても、私たちは同じサイドです」四季は微笑んだ。 「ありがとう」彼は目を開け、微笑んだ。「嬉しいよ。とても嬉しい。もう思い残すことはない」 「人の感情の中で、最も単純なメカニズムだといえるものは何でしょうか?」四季は突然きいた。 「悲しい、という感情だろうね」 「しかし、それは人間に特有のもののように思えます。複雑な頭脳を必要としているのでは?」 「最もベクトルが見やすい。信号が明白で強い。だからこそ、記憶に強く刻まれるのではないかな。楽しいことや、嬉しいことなど、たかがしれている。いずれは忘れてしまうだろう」 「複雑だから、残るのかもしれません。嬉しい、楽しいの方が、単純に思えますが」 「何故、そんなことを?」 「そこに、生命維持の鍵があるのでは、と思いました。ドクタの方法が成功した鍵は、そこにあるのではないでしょうか?」  久慈は眉を顰《ひそ》め、難しい顔になった。 「何だって?」彼はききかえした。 「もう一度言いましょうか?」 「違う。言葉は理解した。概念が……」 「極めて特殊な境界条件が、存続を可能にしているのです」 「ああ……」久慈は口を開け、視線を宙に彷徨《さまよ》わせる。「おお、そうか……」  静かな空気がそこにある。  真理は、塵のように、見えなかった。  しかし、それはどこにでもある。  それを見ようとする者は、  いつでも、それを捉えるだろう。  いつでも、それを手に掴むだろう。  彼は、息を止めたまま、ゆっくりと頷いた。 「失礼する」久慈は立ち上がった。「帰りたい」 「はい、手配いたしましょう」四季は、パティを見て目で指示をした。「しかし、ドクタ。そんなにすぐには、お迎えが参りませんよ」 「急がせてくれ」彼は言った。「すぐに帰りたい。研究所へ帰りたい。今の君の発想は凄い。そのとおりだ。ああ、何十年も気づかなかった」彼は額に片手を当てた。「馬鹿な頭め、何をしていた。このまま死ぬところだった」 「ドクタ、どうかお座りになって下さい」 「そうだな。まだ、死ぬわけにはいかない。すまない、慌ててしまった。年寄りというのは、どうしようもなく慌てるものだ。残り時間が迫っているのでね」 「まだまだ時間は充分にありますわ」 「ああ、そうだな」彼は大きく息を吸い、そして微笑んだ。「ああ、嬉しいよ。本当にありがとう。なんとお礼を言って良いか。君は、本当に……」 「おききしたいことが一つあります」 「何だね?」 「最初にお会いしたとき、ドクタは、私の細胞を受け取って下さいました。その生命の未来に干渉しない、という条件以外は、何もおっしゃらなかった。何もおききにならなかった」 「しかし、君は話してくれたね」 「必要だと思ったからです」 「わしには、その必要はなかった。わしは、あれを、単なる試験体と捉えようとした。それは難しかったが、そうしようと努力したのだ」 「私は、何人もの人を殺した人間です。そのことを、どう処理されたのですか?」 「どうも」彼は首をふった。「今でも、それは懸案事項だ。何も処理をしていない。真賀田四季は、両親を、叔父を、刺し殺した。それが、今、目の前に座っている美女と同一人物なのか、わしには確かめる手立てがない。わしには、自分の娘の細胞を大切に何十年も保存し続けた母親が見えただけだ。その両者には、何かの共通点があるかもしれない。たとえば、ある国は、別の国へ攻め込んで、大勢の人々を殺した。しかし、半世紀後には、二つの国は普通に国交を結び、人々は観光や仕事のために行き来している。国は同じでも、場所は同じでも、そこにいる人間が変わる、世代が変わる、という説明もできるだろう。それならば、人間の細胞だって、どんどん新陳代謝をしている。君がもし、大昔に人を殺したとしても、そのとき君を形成していた細胞は、既に一つも残っていない。残っているものとは、頭脳に残された傷、記憶だけだ。記録だけが、君の過去を表現する。しかも、その記録は、君の中に残っているだけで、わしの中にはない。さあて、どうしたものかな? わしはどうすればいいだろう? まだまだ考え続けなければならんだろうね、真賀田四季という人物は、いったい何者なのか。何故、あんなことをしたのか。その理由とは、はたして言葉で説明できるものだろうか? 天才の思考が、凡人のそれを超越しているとしたら、そこには、一般化されていない概念が当然、存在するだろう。それらには、対応する言葉がないかもしれない。言葉とは、凡人が共通に認識できる概念を記号化したものだ。なんとか、複数を組み合わせて、数々の思考を説明することはできるが、はるかに超越した思考に追従できるものだろうか? 真賀田四季を説明するために、言葉は充分な機能を持っているとは思えない。無理だろうね。君が頭の中で考えても、それをアウトプットできない概念があるはずだ。とにかく、残念ながら、完全なアウトプットが達成できるという見通しは今のところはない。そのまえに、わしのこの頭が、駄目になるだろう」 「ドクタは、ご自分を言葉で説明できますか?」四季が首を傾げてきいた。「ご自身を完全にアウトプットできますか?」 「さあ、できるかもしれんし、できないかもしれない。ただ、明らかなことが一つある」久慈は笑った。「わしには、アウトプットなど必要ないし、そんなことをしている暇はない、ということだ」      6  四季はバルコニィの椅子に腰掛けている。オレンジ色の水平線が壁のスリットから見えた。一時間ほど、そこに座ってお茶を飲みながら、仕事をしている。目は半分は閉じていた。右手は自分の髪を触っていた。幾つかの仕事が同時に進行している。最もエネルギィを使うのは、計算、設計、予測、発想を行う部分であり、それらの間の連絡役、あるいは統括する役、記憶を整理する役、などが付随していた。タイムシェアされている部分もあれば、並行処理されているものもある。ときどき、景色へ目をやり、それから、テーブルの上のカップを見た。  パティがポットを持って現れ、お茶を足そうとした。 「ああ、貴女」四季は彼女を見上げる。「お話があります」 「はい」パティはこちらへ真っ直ぐに向き直る。「どのようなことでしょうか?」 「ちょっと、直したいところがあるの。貴女のアルゴリズムでね。今度、私が起きたときにしましょう」 「どこか不具合がありましたでしょうか?」 「いいえ、ちょっとしたこと」四季はカップを片手に持つ。「今は関係なくても、貴女が生きていくうえで、大切なものです。つまり、成長というか、人格形成に必要な部分ね」 「ありがとうございます」 「孤独って知っているわね?」 「はい」 「感じたことがある?」 「いいえ。でも、概念を言葉で説明することはできます」 「たとえば、どういうときに、感じるものかしら?」 「それは、人それぞれですが、一般には、周囲に他人がいない、他人との関係が、自分の期待した状況よりも希薄である、と認識するときです」 「他には?」 「いえ、それだけです」 「悲観的な見方ね」  パティは首を傾げた。 「そこに座りなさい」四季は言った。 「あの……」パティは目を丸くする。「私は、座る必要はありません。座ることはエネルギィの無駄です」 「お願い」四季は彼女を見上げる。 「はい」パティは頷き、ポットをテーブルに置く。  彼女は、椅子を引いて、そこに腰掛けた。優雅な仕草で、申し分がなかった。姿勢良く背筋を伸ばし、四季の方をじっと見る。  四季は、それを黙って観察していた。  海から風が届く。  鳥の声が聞こえる。  時が流れる。 「どうすれば、良いでしょうか?」パティがきいた。 「私は、お父様とお母様を殺したあと、一人で生活をすることになりました。十四歳の夏のことです。窓もない部屋でした。風もない、季節もない、友達もいない」  四季は、そこで言葉を切る。 「それが、孤独ですか?」パティがきいた。 「いいえ」彼女は首をふった。「孤独だなんて感じたことはなかったわ。私には、沢山の仕事がありました。考えたいこと、試したいこと、とにかく、無限にあったの。全部、私のもの。私が考えて良いもの。楽しいこと、気持ちの良いこと、それに没頭できる。孤独だなんて思わない。それどころか、楽園だと感じたくらい。こんな幸せがあるだろうかってね。誰にも干渉されない。自分の好きなことが、好きなだけ何でもできるのです。煩《わずら》わしいことは何もやってこない」  パティは少し微笑んだ。楽しい話題になったから、そう対応したのだ。 「でも、そのうち、私の娘が生まれました。そのあとは、多少忙しくなった。仕事が一つ増えましたからね。ですけれど、やはり、それは苦痛ではなかったわ。どんなことでも、私は楽しめたの。何をしていても、数々の新しい疑問が浮かび、新しい問題を解くことができます。その頃ですよ、貴女のようなタイプの最初のモデルを作ったのは」 「ミチルですね?」 「そう」 「ミチルは昔のことをよく知っているので、ときどき最初の頃の話を聞きます。それは、なんだか、とても嬉しいことです。聞いていると、嬉しくなるのです」 「懐かしい、というのよ」 「懐かしい?」 「今のミチルは、でも、そのときのミチルと同じではありません。メモリィが継承されているだけ」 「継承?」 「そう、人間でいうと、遺伝子みたいなものね」 「では、人間も、記憶を継承できますか?」 「いいえ、それはできません。技術的に可能になるかもしれませんけれど、もし実現できたとしても、容量不足、あるいは処理能力不足でしょう。何らかの障害が起こります。さらには、その能力があったとしても、機能維持容量が足りない。つまりメモリィを維持するための能力が基本的に不足しています。これには、なんらかの医学的処理が必要になります」  四季はそこで空を見上げる。  もうブルー一色だった。  呼吸を意識し、三度繰り返す。 「あの頃は、ずっと楽しい毎日でした。私の人生の中で、一番楽しかった、といえるかもしれません。環境がとても純粋でしたし、広がる未来、無限の可能性を常に見通すことができた。それに手が届くと思いました。何もかも、自分のものだと……。けれども、娘が死んだときに、いえ、娘が死んだときも……、同じように、私には、沢山の課題があって、やはりこれを解決すべきだと、興奮しました。私は、そのときね……、パティ」  四季はテーブルの上に手を伸ばす。  パティは、首を傾げる。 「手を」四季は小声で囁いた。  パティは、片手をテーブルの上に出す。  その手を、四季は握った。 「そのとき、私は、ミチルの死体をバスルームへ運んで、彼女の腕を切ったの」 「切った?」 「ええ、切断したのです」 「どうしてですか?」パティはきいた。 「ノコギリで切りました。金属を切るための、弓型のノコギリよ。それを、こうして……」  四季は、パティの手首を掴み、もう一方の手を、その上で前後に動かした。 「どうしてですか?」  四季は一度目を閉じた。  再び目を開き、小さな溜息をついた。  パティは小首を傾げたまま、黙って四季を見つめていた。 「静かでした」四季は話す。「ノコギリの音だけ。他には何も聞こえないのよ。いえ……、私の中で、娘の声が言いました。お母様、何をしているの? どうして、そんなことをする必要があるのですか? 私は、それに答えました。だって、貴女が生きているときには、できないことでしょう?」  四季は微笑んだ。  パティは、目を見開き、身を乗り出して四季に顔を近づける。  彼女は、次に視線を空へ向け、再び四季を捉えた。 「四季様、雨です。お部屋の中へ」 「雨?」 「頬に水が」パティが腰を浮かせ、もう一方の手を伸ばした。彼女の指が、四季の頬に触れるほど接近する。 「それは、涙です。涙を、知っている?」 「はい。もちろん知っています。しかし、見たことはありませんでした。どうして、涙が出たのですか?」 「わかりません」四季は微笑む。 「四季様は、笑っています」 「ええ……」 「これが、孤独ですか?」  四季は目を閉じた。  さらに、両目が熱くなり、  ノコギリのリズムが繰り返し、  タイルに流れる赤い水が動いた。 「そう、それが孤独です」四季は答えた。 「本当は、悲しいのですね?」パティは尋ねる。 「いいえ」四季は微笑んだ。「悲しくはありません。ただ、そこには、自分だけが存在している、という意識。誰にも伝わらない、という思いがある」 「でも、私にお話しになりました」 「そうね」四季は頷く。 「お聞きして、とても良かったと思います。処理は難しいですが、今後のデータも含めて検討いたします」 「私は、最近、自分がようやく大人になったと感じています」 「大人に? しかし、それは一般的ではありません。どういった意味でしょうか?」 「貴女も、まだ子供でしょう?」 「私は、子供でも大人でもありません。人間ではありませんから」 「メモリィが大きい、処理能力が高い、つまり賢いものほど、長い期間、子供である必要があるのです。動物の中では、人間が最も成長が遅い。何年も子供を経験します。それなのに、私が小さい頃には、皆が……、私の親も、親族も含めて、誰も、私を子供だと扱ってくれなかった。頭脳が明晰であることは、大人の証だという錯覚があったためです。しかし、それはまったく正反対でした。頭脳が明晰なのは子供の方ですし、頭の良い者ほど、成長は遅い。大人になかなかなれないのです。あのノコギリを使ったときも、私はまだ子供でした」 「遊びだったのですか?」 「子供には、遊びも仕事も区別がありません」 「難しい話です」 「ええ……、難しいわ。子供の方がずっと難しい。大人ほど単純です」  四季は、握っていたパティの手を離し、椅子の背にもたれかかった。  溜息をつき、目を閉じる。  もう涙は乾いていた。  これからはずっと、乾いているだろう。一つの処理が終わったからだ。 「四季様、もう、お休みになられますか?」パティが尋ねる。「お疲れのようにお見受けしますが」 「そうね」彼女は言った。「このまま、死んでも良いわ」 「悪いご冗談だと思います。あの、私は、仕事に戻ってもよろしいでしょうか。お休みの支度《したく》をいたします」 「ええ」四季は頷いた。「お願いします」  パティは立ち上がり、一礼した。  彼女が去っていく。 「どうして、人間を相手に、それが言えなかった?」其志雄がきいた。 「人間がいないわ」 「僕がいるじゃないか」  四季は、黙っていた。  目を閉じた。  眠りたいと思った。  闇の粘性が空間を染めている。  地面は海をのせたまま、太陽とは反対側へ傾斜していく。  その僅かに斜めの重力加速度を感じた。  滑り落ちていく錯覚と目眩とともに。      7  立体画面の中で、男が報告を続けていた。四季は、データを一瞬で読み、小さく頷いた。 「どうも、今回のこと、まことに申し訳ありません」画面が切り換わり、堀口という名の女が話を引き継いだ。「せっかく、真賀田博士にご指摘いただいて検挙直前まで漕ぎ着けておきながら、今一歩というところで……、まったく、大変残念な事態になってしまいまして、お詫びのしようもございません。どうか……」 「私は、特にどうとも思っておりません。お気遣いなく。犯人の逮捕には興味はありませんので」 「はあ、本当に……、このたびは……」  まだ続いていたが、既に四季は遮断していた。 「君が逃がしたのだろう?」其志雄が言った。 「何のこと?」四季は席を立ちながらきき返す。 「最近、また僕に隠しごとをしているね」其志雄が楽しそうな口調で言う。「いや、全然不満ではないんだよ。どちらかというと、君としては、良い傾向だと考えているくらいだ」 「そうね、少しくらい、秘密を持ちましょう、お互いに」 「君の子孫は見つかった?」其志雄は尋ねた。 「まだ、探していません」四季は答える。  子孫だろうか、と彼女は思った。  実のところ、そういった印象も、感情も、彼女の中には既に存在しない。かつて一時だけそれが芽生《めば》えたと感じたことがあるだけだ。おそらく一瞬の錯覚だ。今は理屈としての解釈があるだけのこと。したがって、久慈昌山から、その生命が存続していると聞かされたときも、その事実を受け止める以外に、積極的な欲求は立ち上がらなかった。それが大人になった、ということだろうとも分析できる。  久慈の曾孫を殺害した連続殺人犯が逃亡した理由は、四季にはわかっていた。警察が彼に目をつけたことを、彼は知ったのだ。その情報が流れる道筋を、四季は最初から予測していた。彼が管理しているデータは公のもので、つまり、警察も捜査にそれを使っている。同じソースから、彼は次の被害者を選んでいたのだ。彼の道筋を見つけたからこそ、四季は、彼が犯人だと断定したのである。警察がそのことに気づかない、ということも予想していた。だから、彼がさきに察知して逃げてしまう確率が高いのに、その注意を警察にしなかった点は、彼女の責任といえなくもなかった。最初からそれも自覚していた。  見つけ出すことは容易《たやす》い。  彼の目は、ネットの上にしかないのだ。いつまでも潜ってばかりはいられない。必ず頭を出して、周囲を見にくるだろう。だから、それを感知するセンサを仕掛けて、待っていれば良い。  四季には彼個人に対する関心はなかった。どんな男なのか、見たいとも思わない。若い頃の彼女だったら、会ったかもしれないが。  しかし、  彼女の子孫の彼が……、  あるいは彼女が……、  自分たちを撃った人間を探し出したいと考えているかもしれない。  だから、  それを確かめたい、とは思った。  そして、できれば、好きにさせてやりたい。  不思議な気持ちだ。  不自然な気持ちだ。  自分が自由になりたい、という以上に、  いくら遺伝子を受け継いでいるとはいえ、  明らかに他者の自由を尊重したいという欲望。  これは、いかなるものか……。  ノコギリで腕を切った、あのときにも、それを考えた。  そう、  確かに、それを考えた。  今でも、ときどき考える。  彼女を、  道流を、  自由にしてやりたかった。  肉体の機能停止などといった些末なことで、  精神が消えていくなんて、  二度と戻らないなんて、  なんて馬鹿馬鹿しいことだろう。  死にたくないのに、  死んでいくなんて、  馬鹿げている。  けれど、  今は、それも、どちらなのか、わからない。  自問しても、答が返ってこない。  統一できないのではない、  答えないのだ。  どんどん、わからなくなっている。  はたして、本当に死は馬鹿げているか?  それを、確かめるためには、一度死ななくてはならないだろう。  どうして、一度しか死ねないのか。  馬鹿げているのか、  それとも価値のあるものなのか、  他者の死を観察するだけでは、どうしてもわからない。  自分の親でも、叔父でも、  そして娘でも、  何度見ても、それはわからなかった。  図書館の扉を開けて、明るい夏の屋外へ出ていく。  白い。  あのときも、あの白さに、死を連想した。  そのシーンが再生される。  あのときに感じた自由……、  その本質とは、  その実体とは、  どんなものだったのだろうか。  感じたような気がしただけか。  幻想。  錯覚。  それでは、キスと同じ。  一瞬。  刹那《せつな》。  すぐに消えてしまうものなのか。  自由と呼ばれているもののすべては、  単に、自由を象徴する儀式でしかないのか。  本質でも、実体でもないものなのか。  今まで見てきたものだけから考えれば、そうなる。  これから見られるものが、それを覆せるだろうか。  否、ずっとまえから予感していた。  ずっと小さな頃から、彼女にはそれがわかっていた。  そんなものがないことを、彼女は知っていた。  逃げていくから、  手が届かないから、  自由に見える。  蜃気楼《しんきろう》のように。  錯覚にすぎない。  おそらく、  きっと、  実体はない。  掴むことはできない。  それはわかっていた。  ただ……、  願わくば、  自分の内側に、それを見たい。  錯覚でも良い。  見ていたい。  この惑星の表面で、あらゆる場所に、あらゆる時代に、  沢山の人間が、別々のことを考え、  それぞれの生に悩み、  あるいは、それを忘れようとして、  けれども、擦れるように寄り添い合い、  真のコミュニケーションもないまま、  錯覚と幻想を頼りに、死を待った。  それが、自由か?  自分を弱いと思いながら、  自分は愚かだと考えながら、  そして、自由など手に入らないものだと諦め、  静かに死んでいく。  それが、自由か?  死こそが求める自由だと気づいた者は、とっくに死んでしまっただろう。生きている者は、死者を見て、自由になったのだ、安らぎを得たのだ、と評価してきた。  そして、可哀想だと泣く。  自分は、そうはなりたくないと願う。  死者は泣かない。  泣くのは生者だ。  可哀想なのは、いつも、残された者たち。  死んだ者は、自由を得たのか?  生きているからこそ、考えることができる、という発想が既に不自由だ。それに気づかないのは、何故だろう? 誰も死んだことがないから、その自由を想像できないから、ただそれだけなのか?  生命活動の束縛を断ち切ることは、充分に可能だ。  理論的に、技術的に、可能なのだ。  人間には、それができる。  肉体が死んでも、生きることができるはず。  それを受け入れることさえできれば。  そのとき、初めて、人は真の自己を認識するだろう。 「違う?」四季は呟いた。 「僕にはもちろん、それがわかる。僕には肉体がない。最初から、僕の躰は死んでいる。でも……」其志雄が首をふった。「そうじゃない人間は、そんな考え方には、とてもついていけないよ。君は、大勢を断ち切ろうとしている。自分以外を、そして、すべてを」 「そうかもしれない」 「断ち切ることが、自由だと思うんだね?」 「思うわ」 「その観念自体が、君が切り捨てようとしている集合の中にあるんだよ」 「そう、矛盾している」四季は頷いた。「その矛盾は常につきまとうもの。矛盾の壁を乗り越えないかぎり、新しいシステムは生まれない」 「遠くへ飛ばない者は、新しい価値を見つけられない。これは真だ。だけど、遠くへ飛べば必ず新しい価値が見つけられるわけではない。突然変異の種は残れば正。しかし、多くは死滅して、すべてが消える」 「貴方の言うことも、正しいと思います」 「四季、君はいつも正しいよ」 「私たちは、トラックを何周も回っているの。いくら走ってもどこへも行けないわ」 「どこへ行きたい?」 「わからない。でも、ここではないところ」 「何がほしいの?」 「わからない。でも、ここにはないもの」  しかし、四季はこのとき、急に笑えてきた。  くすくすと笑いだす。 「どうしたの? 何が可笑しい?」  可笑しかったのではない。  最初に笑ったときの映像を再生する。  母の顔が目の前にあった。  そのときは、母と認識していたのではない。  その大きな顔が笑った。  そのときは、それが笑顔だと認識していたのではない。  しかし、その顔の真似をすることで通信を試みる。  私は、貴女と、コミュニケーションがしたい。  そう考えた。  まだ、そこは、言葉のない世界だった。  概念と概念の組合せによる発想。  見たもの、聞こえるものの、整理。  類似を見つけ、共通点を見つけ、何度も組み立て直す。  真似をして、繰り返し、確かめる。  子供は、可笑しいから笑うのではない。  笑うことが、可笑しいことの表現だと制限されるのは、もっとあとのことだ。  どうして、自分が笑ったのか、少し理解できた。  それは、言葉にならない。  可笑しいというよりは、驚きや、感動に、近いものだった。  煙草の匂いがした。 「あら、これは……、お父様の匂いだわ」彼女は呟く。 「大丈夫ですか?」犀川創平の声だった。「体にも悪いのです。やっぱり、やめた方が良かったでしょう?」 「ええ……」彼女は答える。「ええ、そうね。忠告をきかなかった私がいけないわ。ああ……、もう大丈夫です。面白い経験をしました。他人のアドバイスを受けて、そちらの方が良かった、そういう経験って素敵ですわね。多少、アーティフィシャルではありますけれど」 「はあ、そうですか? 僕は、そんな経験ばかりです」 「どうして、躰に悪いものを吸われるの?」 「さあ……、どうしてでしょう。正直に言えば、美味《おい》しいからですね。それだけです。あまり、生に執着していないからでしょうか」 「死を恐れている人はいません。死に至る生を恐れているのよ。苦しまないで死ねるのなら、誰も死を恐れないでしょう?」 「おっしゃるとおりです」 「そもそも、生きていることの方が異常なのです。死んでいることが本来で、生きているというのは、そうですね、機械が故障しているような状態。生命なんて、バグですものね」 「バグ? コンピュータのバグですか?」 「ニキビのようなもの。病気なのです。生きていることは、それ自体が、病気なのです。病気が治ったときに、生命も消えるのです。そう、たとえばね、先生。眠りたいって思うでしょう? 眠ることの心地良さって不思議です。何故、私たちの意識は、意識を失うことを望むのでしょう? 意識がなくなることが、正常だからではないですか? 眠っているのを起こされるのって不快ではありませんか? 覚醒は本能的に不快なものです。誕生だって同じこと……。生まれてくる赤ちゃんって、だから、みんな泣いているのですね。生まれたくなかったって……」 「僕の知っている範囲では、生まれてすぐ笑ったのは、ゾロアスターくらいでしょうね」 「よくご存じね。ゾロアスターが生まれたときには、賢者が七人いました。ブッダも泣かなかった。彼は生まれてすぐ七歩あるきました。7は孤独な数ですね。孤独を知っている者は、泣きません」 「貴女も生まれてきたときは、泣いたはずです」 「さあ……、どうでしたかしら……。でも、私が産んだ子は泣きました」 「お子さんを殺したときも、貴女は泣かなかった」 「何故? どんな理由で? 泣く必要がありますか? 私の精神が、そんな矛盾を許すと思われますの?」 「貴女は、死ぬために、あれをなさったのですね」彼はじっと四季を見つめて、そう尋ねた。  一秒の沈黙も許さない。  彼女はにっこりと笑って頷く。 「そう、自由へのイニシエーションです」 「警察に自首されるのですね?」 「自首したのでは、死刑にならないかもしれませんね。死刑って、いつ執行されるのか教えてくれるのかしら? 私、自分が死ぬ日をカレンダに書きたいわ。こんな贅沢なスケジュールって、他にあるかしら?」 「どうして、ご自分で……、その……、自殺されないのですか?」 「たぶん、他の方に殺されたいのね」  そのとき、四季は星雲を眺めていた。  その回転を見ていた。  とても大きい。とても手が届かない。  そこへ行くこともできないだろう。  静かに、音もなく、粒子は渦を巻く。  お互いに引き合い。  釣り合い、流れる。 「自分の人生を他人に干渉してもらいたい、それが、愛されたい、という言葉の意味ではありませんか? 犀川先生。自分の意志で生まれてくる生命はありません。他人の干渉によって死ぬというのは、自分の意志ではなく生まれたものの、本能的な欲求ではないでしょうか?」 「理屈としてわかりますが……」 「お父様も、お母様も、死んでいかれるときに、そう思われたかもしれないわ。突然だったことには驚かれたでしょうけれど」 「いや、やはり、僕には理解できません。しかし、何故理解できないのかというと、僕がそうプログラムされているからです。貴女がおっしゃることは正しいかもしれない」 「私には正しい、貴方には正しくない……。いずれにしても、正しい、なんて概念はその程度のことです」 「あの、博士……。どうして、僕に会いにこられたのでしょうか?」 「貴方が、あの海の中で、おっしゃったことが気に入ったからよ。水の中では煙草が吸えないって、おっしゃった。私に予測できない発言でした。理由はそれだけです。犀川先生、貴方、頭の回転が遅いけれど、指向性が卓越している。判断力が弱いけれど、客観性は抜群だわ。たぶん、まだ何人かをお持ちなのでしょう? いろいろな犀川先生がいらっしゃるはずよ。貴方の回転の遅さは、貴方の中にいる人格の独立性に起因しているし、判断力の弱さは、その人格の勢力が均衡しているからです。でも、その独立性が優れた客観力を作った。勢力の均衡が指向の方向性に対する鋭敏さを生むのです。貴方は、幾つもの目を持っている。奇跡的に混ざっていない。いえ、本当の貴方を守るために、他の貴方が作られたのね。貴方の構造は、私によく似ています」 「分析していただいて光栄です。でも、どこが違いますか? 博士と僕は」 「よく似たアーキテクチャのCPUですけれど、そうね、最も違うのは、たぶんクロックでしょう」 「では、あと、百年くらいしたら、僕も博士のようになれますか?」 「そう、百年では無理です」  その百年が過ぎた。  彼は、私に追いついただろうか?  四季はにっこりと微笑む。  目を瞑り、自分のその笑顔を見た。  二人は握手をする。  彼の手の温もり。  煙草の香り。 「本当は、貴方にキスでもしていただこうかと思っていましたのよ」彼女は思い切って打ち明けた。しかし、一瞬で未来が見えた。「でも、貴方はそんなことはしない」 「ええ、しません」 「もうすぐ、彼女がいらっしゃるわ。あの方には、キスをされる?」  それも見えた。  すべて見える。 「余計なお世話です、博士」彼は四季を見て微笑んだ。 「そうおっしゃると思っていましたわ……」  それだけは、予想外だった。  違う未来。  見えない未来もある。 「予想外のご返答ができなくて、恐縮です」  四季はそこでスイッチを切った。 [#改ページ] エピローグ [#ここから5字下げ] ちょうど新しい太陽の光が射《さ》し初《そ》めるように、かの、各人に共通の人権の論が耳にひびき、聞くも嬉しい自由の説、すばらしい平等の説が聞えたときは、人心は高揚し、晴れやかな胸のうちに純真な血が湧《わ》き返ったのは、誰しも否《いな》むことができますまい。その頃は各人ともに、自主独立の生活《くらし》ができると思いました。というのは、懶惰《らんだ》と我欲の輩《ともがら》の手に握られて、国々を縛《いまし》めていた繋縛《けいばく》が、今にも解けそうに見えましたので。 [#ここで字下げ終わり] 「こんにちは……。儀同《ぎどう》さん?」四季は玄関のドアを開けて声をかける。 「上がって!」儀同|世津子《せつこ》の高い声が奥から聞こえた。  彼女は靴を脱ぎ、中へ入っていった。リビングは無人。世津子はキッチンにいるようだ。 「儀同さん、会社は? お休みなの?」キッチンを覗く。 「そう、病気なのよぉ」世津子は笑って答える。「不思議よねぇ。会社休むと決めたとたん、ぱっと直っちゃったりして」  彼女は忙しそうに出てきて、テーブルに紅茶のカップを並べ始めた。  四季はリビングのキャビネットを見る。この部屋に入るのは初めてだったので、目についたすべてのものを記憶した。 「テレビが四台もあるじゃない」 「そう、なんか、捨てられないのよねぇ……、と、いうのは嘘ぉ。それはね、テレビ用と、ビデオ用と、ゲーム用と、それに、その白いのはパソコン」  紅茶がカップに注がれた。四季は椅子に腰掛ける。  世津子がパソコン通信の話を始めている。壁にピンで止められた写真を四季は見た。  彼女の友人だろうか。どこかの山の頂上らしいところで、二人は笑って立っている。  奥の部屋は寝室にちがいない。  ときどきここへ、犀川創平が来る。しかし、彼の痕跡は、ここには何も見出せなかった。 「うーん」世津子は立ち上がり、キャビネットにあった灰皿を取りにいった。「まあ、そう……、いろいろ都合があってね。ちょっと、見せてあげようか?」 「何を?」四季はきいた。コンピュータのことだ。 「まあ、見ててごらんなさいって」世津子はスイッチをつける。 「これ、今、何をしてるとこ?」四季は世津子に近づいた。 「立ち上がろうとしてるところ」 「立ち上がろうと? 立ち上がるの?」 「立ち上がるわけないでしょう!」世津子が笑う。 「儀同さん、今そう言ったじゃない!」四季は困った顔をつくった。 「ごめんごめん。悪かったわ。あのね、立ち上がりはしないけど……、まあ、なんというか、スタートするというか、走りだす……というか……。うーん……」  世津子はマウスを動かす。  おもちゃみたいなOSの画面。  電話回線を使って、原始的な通信を始めようとしている。  プロトコルを送り合い、確かめ合い、繋《つな》がる。  初歩的なコミュニケーション。 「ほら、今、電話をかけているところだよ」世津子が言った。 「誰が?」四季は辺りをきょろきょろしてみせる。 「このパソコンが電話してるのよ」 「なんだ、やっぱり電話するのね?」 「うーん」世津子は口を歪《ゆが》める。「パソコンが電話をして、メールを読んだり、送ったりしてくれるの」 「どうして? 儀同さんが電話すればいいじゃない」 「電話って、面倒でしょう?」 「そうかなあ……。こっちの方がよっぽど面倒みたいだけど」 「まあ、見てなさいって」  ようやくサーバにログインした。 「ほらほらぁ、メールが届いていますって、言ってきたでしょう?」 「誰が言った?」 「言ってないけどぉ、ここに書いてあるじゃない! もう……。画面に書いてあることを、専門用語で、言っている、って言うのよ」 「ふうん」  世津子はメールを画面に表示させる。西之園萌絵から届いたものだった。四季は一瞬でそれを読みとった。  西之園萌絵@N大・犀川研。四月から犀川先生の部屋のすぐ向かいの部屋に毎日いるんですよ。先生は、あまり大学にいませんけど。あれは今、犀川先生がお持ちです。先生がおっしゃったのです。先生の部屋の棚にありますから……。  世津子はまだそれを読んでいる。彼女は髪を後ろで結んでいた。その首筋を四季は眺める。  世津子が産んだ双子が、眠っていた。  隣のリビングで電話のベルが鳴っている。 「はぁい、儀同です。まあ、創平君! なあに? え! まさか、こっちに来てるの? いやだぁ、どうしよう……。今から? ご飯も食べるのね? 来て来て。絶対来て。今、どこ? じゃあ、あと一時間くらいね。OK、ご飯食べるでしょう? あるようにしとくわ……。大丈夫……、じゃあ」  電話の小さな音。 「もう少し早めに電話ができんのか」世津子が呟く声。「もう、いつもいつも……」  四季は襖《ふすま》を開けて、顔を出した。 「誰か来るの?」 「兄貴が来るって」電話のそばで世津子が横たわっている。 「きゃあ! じゃあ、N大の先生?」 「なあにぃ。その、きゃあって、貴女いくつなの?」 「あれ、いけない?」 「恥ずかしいよ」 「だってだって、お兄様でしょう?」 「そうよう、兄貴っていうのは、お兄様だよ。なんか妄想してない?」 「だって、私、アルバム見ちゃったもん」 「え、どこの?」 「こっちのお部屋の本棚にあるやつ」 「あ! ちょっとぉ、もぉう!」世津子が起き上がった。「凄いことするわね。恥ずかしい人!」 「どうして?」四季は首を傾げてみせる。「素敵なお兄様じゃなあい? 儀同さんだって、すっごい可愛いし」 「かぁ! 何を見たの?」 「なんか、海岸みたいなところでツーショットのやつ」  その映像は、既に四季の中で立体として再現できた。  その砂浜を再現してみたいと思った。  しかし、砂浜に流れ着くものは、首を吊った兄。  そして、血に汚れた人形。  前屈みの叔父に、ナイフを突き立てる、手応え。  スイッチを切り換える。 「私、やっぱり駄目。帰るわ。お兄様によろしくね」  壁に掛かっている鏡で、四季は自分の顔を確かめる。  犀川は気づかないだろう。  世津子は玄関まで出ていき、ドアを開けた。 「いらっしゃいましぃ」  犀川創平が入ってきた。 「冬だから当たり前だけど、外は寒い」彼は言った。  四季は口もとに手を当て、できるだけ顔を隠す。 「あれ、お客さん?」犀川が一瞬だけ彼女を見たようだ。しかしメガネのレンズが曇っている。彼はすぐに横を向いてしまう。 「こ、こんにちは、わ、私、単なるお手伝いの者です」四季は落ち着かない様子を装って言った。「あ、ごゆっくり……、あの、私、その、もう帰りますから。どうぞ、ごゆっくりなさって下さい」 「どうも」犀川はこちらを見なかった。「お疲れさま」  四季は玄関へ行き、ドアを開けて外に出た。  冷たい空気。  包み込まれる。  息を吐いた。  少し笑う。  面白かった。  とても、楽しかった。  こんな遊びは初めて……。  また、息を吐く。  自分の呼吸は、どうしてこんなに温かいのか。  冬。 「人間がお好きですか?」犀川は尋ねた。  四季は口もとを緩ませ、そして微笑んだ。 「ええ……」  彼の姿を見る。  彼の思考を見る。  それは綺麗だった。 「綺麗だから」  だから、自分のものにしたかった。  自分も、綺麗になって、自分のものにしたかった。  彼も、彼女も、  あの心も、あの精神も、  みんな綺麗だった。  矛盾しているから。  とても、綺麗に矛盾している。 「雪を降らせましょうか?」四季はきいた。  彼は上を向く。  四季も空を仰ぐ。  白い、細かい雪が、ゆっくりと、  広がるように、二人に落ちてきた。  今は冬、彼女はそれを思い出す。 [#ここから5字下げ] 冒頭および作中各章の引用文は『ヘルマンとドロテーア』(ゲーテ著 佐藤通次訳 岩波文庫)によりました。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 底本 講談社 KODANSHA NOVELS  四季《しき》 冬《ふゆ》  著者 森《もり》 博嗣《ひろし》  二〇〇四年三月五日  第一刷発行  発行者——野間佐和子  発行所——株式会社講談社 [#地付き]2008年6月1日作成 hj [#改ページ] 置き換え文字 掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 填《※》 ※[#「土へん+眞」、第3水準1-15-56]「土へん+眞」、第3水準1-15-56